ルサンチマンとAV女優

さて、前回は矢口真理さんへの批判は奴隷道徳に基づいてはないか、という様な話をした。最後の例としてAV女優への偏見も実はこうした奴隷道徳に基づくものではないか、と思うのである。

そもそもこれまでの話で、性的に魅力のある女はその事実のみで種の保存の観点からいえば生きる意味があると言ってきたが、このAV女優もまたしかりである。彼女達は人をたぶらかせる魅力を持っていて、性欲があり、男に良く見られる事に強い効用を見出す。これは種の保存の観点からみれば凄く素直な事である。テクノロジーが発展していなければよく子を産み、種の保存に貢献する、その意味で優れた人間であっただろう。ならば適性を生かしていきたいと思う事は何も問題は無いはずだ。つまり付加価値を作りだす事である。そしてそれが不特定多数の男が自分をみるAV女優という道なのだ。しかし本能的にセックスをする事は良いことだと知っている人間はそれをできない事を正当化し、そしてその才能を遺憾なく発揮し、男を釘づけにする自由で才能がある人間に対して嫉妬をする。そして道徳を持ち出す。これは男も女も関係ない。さも禁欲的に生きている事が正しい様な、もっともらしい事を掲げる。だが、禁欲的に生きること自体は真理ではなく、というか真理なんてないし、人々が勝手に弱い自分を正当化する為の根拠にした事はニーチェキリスト教批判の過程で明らかになったはずだ。そして禁欲的に生きる様に彼女達を中傷する人間でもアダルトビデオを見るし、男は風俗へ行き、女は浮気をする。私はこうした正直さや根本的な事から逃げず、堂々とライオンの様に自らの性欲や美貌を見せびらかし、自分に正直に、そして自分の美しさ、自分が成そうとすることをより多くの人間にみてもらい、魂を燃やし、自分の才能をいかんなく発揮し、自分を証明する事を堂々と行う女性の方が、影からこそこそ自分ができない事を正当化し、こうした自由な人間を嫉妬からくる感情で中傷し、さも真理を知ったような、偽善的で、影で異性を裏切る様な人間よりもずっとマシだと思うのである。

次回はまとめも兼ねてなぜ私はこうした人間を擁護してきたかを述べたい。実は私は何の考えもなしに道徳の逸脱者を擁護してきたわけではない。そして必ずしも私は自由原理主義者でもない。だが、一般的に道徳に反する者を擁護してきたのにはちゃんと理由がある。それを次回のテーマにしよう。