ルサンチマンと矢口真理と奴隷道徳

前回はネットを騒がせた36歳の女性の話を通してルサンチマンの話をした。今回はその続きで矢口真理さんが巻き起こした騒動についても関連があるので説明する。

矢口さんを批判する物は果たして奴隷道徳に基づいて批判を行っていないか省みる必要がある。

 実は彼女への批判者が分かっているのかいないのかは不明だが、彼女への批判もまたルサンチマンからくる物ではないだろうか。そもそも性的に魅力的である事は本来的に良い事だと言う事は説明した通りだ。そして彼女が自分の好みの男を誘惑し、その誘惑により、相手の男性を落とした事実は本来的な生物として、ある意味で勝利者である事を意味する。だが、彼女は社会から強い批判を受けた。これは批判者が道徳から解き放たれ、自由に生きる彼女を見て、嫉妬をし、彼女の様な事ができない自分を正当化する為に道徳を持ち出して彼女を中傷しているのである。これは、ある意味で自分ができない事を正当化する為にその事実から目を背けているのである。

 本来的に好きな相手と好きな時にセックスする事は人間の種の保存の目的に反していない。彼女を中傷する者はどこかにそれをしたくてもできない理由があり、できない事を正当化したいだけなのだ。(地位、立場、年齢、既婚か否か、能力がないか、機会に恵まれていないか等)そしてそれをやってのけた人間に対して嫉妬から生まれる劣情を一見正論に見える形で中傷する事で昇華しているだけなのだ。

 とはいえ、私は不倫を肯定している訳ではない。むしろ否定している。不倫は間違いなく社会を崩壊させるだろう。だから法律は昔は刑法で禁じられていた。今も民法上の不法行為として認められるだろう。そして今回の件でいうならば、私は旦那さんの肩を持つ。紛れもなく矢口さんが悪いからだ。だが今回の件で言うと彼女たちのもめごとは当事者間で解決されるべきだった。彼女は法に則って裁きを受けるべきなのだ。つまり彼女の騒動は民法の範疇で処理されるべきだった。しかし実際には中傷され、仕事も干された。そして批判者も実際のところ奴隷道徳に基づいた正義を語った劣情によって動かされている。(しかもメディアや大衆は人をさばく権限などどこにもないのだ、人を裁くのは裁判官である)

 人が犯した罪は人が裁く。しかしそれは国民自身が決めた法律に基づいて裁かれるのである。だから法律ではなく、奴隷道徳に基づく特定の主観によって裁かれた彼女には、もちろん一人の女としては軽蔑するべき点はあるが、不当に彼女の権利が侵害された現状をみていると、かわいそうに思えるのである。無論事実は否定するつもりもないが。

 次回はAV女優とルサンチマンを絡めて考えてみたい。