ニーチェしめくくり

少し私事で色々あって、期間が空いてしまいましたが、最後に少し付け加えます。

ニーチェに言わせれば、多くの道徳的な価値観は人間の生の発展を否定する事で成り立っていた。(今までキリスト教やその他の宗教、道徳などがいかにルサンチマンに基づいたものであった事を説明してきた事を考えればわかりやすい)そしてニーチェはどうすればルサンチマンに侵されず、自分の生を受け入れて、肯定できるかを考えた。そしてその方法が永劫回帰の世界観に基づいた生き方だったのは今まで説明してきたとおりだ。

私たちは自問自答する必要がある 

 

 

現在様々な形でルサンチマンから派生する奴隷道徳による道徳が世間ではまかりとおっている。ただルサンチマンに侵されてしまうのは人間ならば仕方ない事かもしれない。だが、問題なのはそれがさも真理の様に宣伝され(つまり生の発展の観点からみて劣っている事が正しい様に宣伝され)真に優れた人間が足を引っ張られてしまう事が問題だ。

日本人はどうだろうか

 

日本人特有の出る杭は打たれるという考え。これは果たして奴隷道徳に基づいていないと言い切れるだろうか。人を批判する時それは本当にルサンチマンに基づいたものではないと言えるか。私たちは道徳をそれが真理である様に信仰していないか。お金もちに対する僻み、モテる者に対する僻み、優なる者への僻み。そしてそれを正当化するために自分が弱いこと、ダメな事を正当化していないか?ドキッとして省みる事ができるならそれはいいことだ。だが真に問題なのはそれをさも自分の言う事がまるで真理である様に言いふらす人間だ。

さて今までニーチェに関する事をつらつら書いてきたが、自分の気持ちが大いに入ってしまい、あまり客観的な文章が書けたとは思っていない。なのでぜひニーチェの本を読んでみることをおすすめする。もしくはニーチェの入門書を読んでみるのも良い。ただ、入門書でも難しいかもしれない。だからといってニーチェの言葉を集めたものを読んでも彼の真意は分からないだろう。できれば難しくても少しずつ読んで、そういえばこいつこんな事も言ってたな。なんて思いながら読んでみるといいかもしれない。

あと個人的には哲学は生きる上では必ずしも必要ないと思う。むしろ哲学をやらないで社会で没個性的に生きる方が楽だ。何も考えないで人に言われた通り、ルール通りにしていきる。こんな事が全ての人間にできればこんな楽な事はない。どこかの誰かが理想や思想を押し付けたり、共産主義の国の様に国民に計画経済を押し付けたり。それをやってきたのがナチスソ連だ。だが、それは思考を停止させる事でもある。自分の頭で考えないから新聞やテレビ、ネット等の媒体が正しいと信じ切ってしまう。何かしらのメディアの言う事、知識人の言う事を盲信する事は楽だが、それは自分にとって不利益をもたらしているかもしれない。もし物事を多角的に考える事が良い事だとするなら、哲学は生きる事において有益なものとなりうる。それを原発問題を題材にして次回から哲学の効用を説明していきたい。