ニーチェ、まとめ②道徳批判、永劫回帰

道徳批判

 

 

前回はキリスト教が奴隷道徳に基づくものだとニーチェが否定したところまで言及できた。そしてそれはニーチェに言わせれば道徳もそうだという。それは人が道徳を規定する際、ルサンチマンに基づいて規定するからである。結局道徳を制定するのは自分よりも強い人間に出てきて欲しくない人間、つまり自分より強い人間を恐れる、弱い人間なのだ。

 例えば道徳の利他性にそういった面が現れる。道徳には他者に配慮せよと命令を強制的に守らせて、個人が自分自身を配慮する事をやめさせ、共同体の為に自分を犠牲にしろというものだ。これは結果的に人の個性を否定し、強くあろうと、努力しようとする人間、強者を否定し、自分達と同じ存在(普通の人、つまり上の例で言えば弱者)にとどめようとする事だ。

 例えば金持ちがうまい具合に金儲けする事に対して私たちは少なからず嫉妬をするだろう。しかし人々の中にはそうした金を稼ぐ行為を道徳違反だと批判する人間もいる。現にプロテスタントを除けばキリスト教ではたくさんの金を稼ぐ事は忌むべき事とされる。だが、仮に金持ちが工夫をして、つまり国と国民の契約たる法律に反していないで金を稼いだとするならいったい彼の行為はどこに批判を浴びる要素があるというのか。金持ち批判は典型的なルサンチマンである。

また、モテる人(傾向として多くの異性を引き付ける人)に対する僻みもそうかもしれない。昔ある大学の教授がイケメン税を施行すべきのを聞いた事があるが、これも自分が不細工な事(そもそも絶対的な不細工なんているのだろうか?)を正当化し、生物として劣っている事をよい事とする。ルサンチマンに他ならない。優な存在を引きずりおろそうとするのである。

「自らを正義と言い立てる者をもっとも警戒せよ」

 

 

これはニーチェの格言の一つだ。彼は自らの主張こそが真実であると主張する輩に対しても批判した。この世に真理は無く、あるのは解釈だけであるからである。人々は世界や現象や物を見て自分たちで勝手に色づけたり、物語を作って勝手に解釈する。それがあつまってその存在になる。(木村拓哉の例)そしてその時社会の中で最も力を持つ解釈が真理と呼ばれる。今まで幾多もの真理とよばれる物が存在した。しかしそれは時代が進むにつれて誤りだとされる物も多かった。その時真理とされている物はその時正しかったものであっただけで、時間が経てば誤りとされるかもしれない。もしくは誤りだと分かって、その後結局真理とされるかもしれない。結局いつまで経っても真理と呼ばれる物が変わってしまうならそれは真理ではない。彼岸にありもしない真理を打ち立てても仕方ないのだ。

永劫回帰

 

 

 ニーチェは自身の批判により従来の価値観に対して徹底的に吟味を重ねた。そしてそれらの価値の転倒に成功した。(無論彼は彼の主張こそが真理でありルソーやマルクスの様に社会革命を起こせとは言わなかった)普通信じていた物が信じれなくなると、不安になる、ニヒリズムに陥る。だが、彼は生きる事に否定的にはならない。そんな世界で自分を肯定し、「良く」生きるにはどうすれば良いのか。その根拠になったのが二回くらい前の記事書いた永劫回帰という価値観だった。

おおまかにまとまるならこんな感じだろうか。次回はあとがきを書いてニーチェの紹介を終わりたいと思います。