ニーチェ2-1 ルサンチマンについて

さて、今まではニーチェの認識論という実はマイナーなところの議論を延々とやってきた。だが、ニーチェを語る際あまり出てこない部分だと思うので、一応触れておく必要があると思い長々説明した。今回からは「ルサンチマン」というとてもポピュラーな言葉について説明していきたい。ルサンチマンというのは実は構図の事である。そしてこの世のあらゆるところに蔓延している。それはいったいどういう物か。

よく言われるキツネとブドウの話を借りて説明しよう。とあるところにキツネがいる。そして目の前に背の高い木がありブドウがなっている。そしてそれを取ろうとしている。しかしそのキツネはそれを取る事ができなかった。そんなところに別のキツネがきて自分が取れなかったブドウを工夫してとった。その姿を見た主人公キツネは猛烈にそのキツネに嫉妬する。だが、それでは自分のおさまりが付かない。そこで主人公キツネはこう考える。「そうだ俺がブドウを食べれなかった事、これは正しい事なんだ」「なぜならそれによって俺は糖尿病にかからずに済む」とか、「そもそもあのブドウはまずかったはずだ」などと言いいきかせ、自分が弱く、できなかった事を正当化する。これがルサンチマンである。この話のミソは嫉妬をするだけでは必ずしも、ルサンチマンとは言えないという事だ。キツネができない事を良い事と置き換えた事にポイントがある。ルサンチマンとは弱い事、できない事が良いことである、という風に価値が入れ替わっているところにポイントがある。キツネは糖尿病にならなくてすむとか、ブドウはまずかったとか、もっともらしい事を言うが、しかしそれは結局自分ができない事を正当化しているにすぎない。そしてニーチェはほかでもない、キリスト教の価値観も(それに近しいものも含めて)このルサンチマンに基づくものに他ならないと考え、徹底的に攻撃した。いわゆる「神は死んだ」とかキリスト教並びにキリスト教的価値観、道徳を批判した事で彼は有名だが、これはこうした根拠があって行ったものだった。道徳も実はこのルサンチマンに根差した構図であると言える。これはおいおい説明するとしたい。

次回からはたくさん例を出して、こうした物が実はルサンチマンに根差した物ではないのか、という提起をしていきたいと思う。その際、かなり「道徳的に」際どい話をする場合もある。(性的な話もしたい)だが注意して欲しいのは「いやそれは道徳的に間違っている」とか「そういう話をするべきでない」というのは無しにして欲しい。これは私の議論は主に前回のニーチェの認識論に則っており、つまり私が話す事はその現象をなすただ一つのピースであるという事をご了承いただきたいという事である。次回はニーチェがいかにキリスト教を批判したかをルサンチマンというキーワードを基に説明したい。