1-6ニーチェの認識論 木村拓哉さんを使って遠近法を説明

遠近法と相対主義

木村拓哉さんを使ってニーチェを解説

さて今回はニーチェとその他の相対主義者の考え方、見え方の違いを説明しよう。ざっくり言うと同じ物を見るときでも人間は全く同じ様に見えてはいない。それは人の条件によって見え方が違うからだ。だから唯一無二の真理なんてない。これが相対主義だ。一方でニーチェの遠近法はたくさんの主観や解釈があつまってその現象は出来ているという風に考える。だから主体が真理なんてものは考えるだけ無駄。というものだ。これは絵にしてみると分かりやすい。例として木村拓哉さんを使って相対主義ニーチェの遠近法を使って説明したい。

ずばり木村拓哉さんという存在を絵にしたい。

相対主義

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この図はつまり各々が勝手に解釈しているだけという事。物を見た時人が同じ様に見えない理由を説明する時はこんな感じ。物があってそれを自分で見て、それぞれが勝手に思っている。でも皆同じ物として認識できない。一方でニーチェはこう考えた。

ニーチェの認識論

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つまり木村拓哉という存在がいて、それを各々が勝手に解釈している、という事に加えて、重要なのは、「木村拓哉はOO」、という各々の解釈が積みあがった結果、木村拓哉という存在になったという事だ。もちろん人は木村拓哉が存在するという現象を見た際もっと色々な事を認識するはずである。例えば人はもちろん彼を人間であると認識するだろうし、声がどうとかも思うだろう。服がおしゃれとかも思うかもしれない。とにかく色んな事を思う。当然周りの意見からも自分の認識は影響を受けるだろう。そしてその存在を総合して自分なりの木村拓哉と認識するのだ。そしてひとりの人間が思う木村拓哉が積み重なって木村拓哉という存在が完成する。もちろん今、この瞬間も木村拓哉という存在への認識は積み重なっていくばかりである。この瞬間も彼への認識は更新され続けている。実際の彼はこの図より遥かに多くの人間から認識され、勝手な彼らなりの解釈の基に様々評価を受けている事は言うまでもない。

どうだろう。イメージは掴めただろうか。これは私にいわせれば革新的な発明であると思う。相対主義は間違いじゃないが、後ろ向きな考え方だ。だがニーチェの遠近法はこれより一歩進んでいる。例えばもし目が見えなくて、耳も聞こえない人がいたとする。その人は木村拓哉を見ても聞いてもなんとも思わないだろう。相対主義ならばそれはその人がただ何も思わないだけ、人それぞれだから、と投げ出す。だが、ニーチェの遠近法を使えばその人は木村拓哉を認識できないのは彼が彼なりの木村拓哉を解釈できないのだから当然だとなる。上の図でいうなら青い人になれないのである。もし、「木村拓哉を認識できない→目と耳が不自由」という論理式があったとする。これの対偶を取ってみよう。そうすると「目と耳が自由→木村拓哉を認識できる」という風に理解できるはずだ。まだ放り投げてしまう相対主義より説得力があるはずだ。

 ニーチェの認識論のイメージをつかんでくれただろうか。彼はよく大きく誤解されるが、私はとんでもなく誠実な男だと思っている。素直過ぎて周りからはバカだと言われるタイプの人間だ。(哲学者は基本的にそうだと思うが)彼は一般的に見て恵まれた人生を送れたとは言い難い。体も弱く、モテず、お金も無かった。そして彼の本当の主張を友人が理解してまとめてくれなかったら、彼はただのナチスに利用された哀れな男である。そんな男はもしかしたら自分の人生を肯定したかったのかもしれない。自分を肯定する為に既存の価値観をひっくり返す方法が永劫回帰という世界観とルサンチマンをキーワードに展開されるキリスト教批判だったのかもしれない。(これは完全に主観ですが)

 次回からはルサンチマンの説明に入る事にしようと思う。ニーチェ観の非常に重要なポイントである。