2-2 ニーチェが展開したキリスト教批判の過程におけるルサンチマンの構図

ニーチェキリスト教の批判をする

前回はルサンチマンについて説明した。簡単に言えば自分が出来ない事、劣っている事を正当化し、本来的に強い物を否定し、価値を転倒させる事だった。(ただこれだけでは誤解を招く可能性があるので簡単に結論を出さず、ゆっくり理解して欲しい)では今回はニーチェがいかにキリスト教ルサンチマンに基づくものであるかという主張を展開させていったかをみよう。

 古来人々は自由であったとき、力が強い人間が常に勝っていた。勝者が共同体を牛耳り、弱者はそれにしたがって生きていた。だが、ある時、弱い立場の人々はこうした状況に対してひっくり返そうとした。その例がキリスト教という考え方だった。キリスト教は弱者が正しく、強者が間違っているという真理をでっち上げた。中世の王と市民をイメージすると良いかもしれない。王の言うままやられるのが嫌だから自分たちが正しいという根拠を作ろうというのである。それが平等や隣人愛、利他主義、そしてあの世という世界をでっち上げ、「あの世で幸せなのは王や権力者ではなくこれだけ苦しい生活をしている私たちキリスト教の信者たちだ」という様な理想を掲げたのがキリスト教だった。そしてキリスト教はそれから瞬く間に広がった。社会には弱者の方が多かったからである。自分にとって都合がよかったからでもある。また、前に話した人間の生きる意味とか死への恐怖を解消する為にもそれは大きな役割を果たした。キリスト教はこういった物を克服するのにも大きな役割を果たした。そして王も信仰するようになり、中世にはとてつもない権力を持つようになる。

しかしニーチェが言うにはキリスト教は本来自然では強い人間に対して弱い人間が自身を肯定する為にねつ造した真理であるという。そして弱い人間、つまり先ほどの例で言えば、市民は奴隷道徳(弱い事が正しい)に基づき、真理のねつ造を行い、それを根拠に自身の正当性を主張し、貴族道徳に基づき行動した人間の価値を転倒させる事に成功したのである。隣人愛などもそれに基づくものであり、キリスト教ルサンチマンに基づく物を彼は証明してみせた。

とはいえ、ここでフォローを一応しておくと、キリスト教にこういう一面があるのは事実だが、必ずしもこれだけのものであるともいえない。そしてキリスト教は価値が無い、と蔑視するのも正しくは無いだろう。それはキリスト教の奴隷道徳の側面によって人々は多くの恩恵を受けている事は事実だし、社会の安定の一翼を担っているのは否定する事はできない。現にキリスト教の利他的な思想は世界における大きなインフラとなっている。キリスト教がなければアメリカどころか、あらゆる国々は大混乱に陥るだろう。この側面でキリスト教の価値を完全に否定する事は不可能だ。

だがこうした奴隷道徳に基づくルールが明らかに貴族道徳、つまり本来的に良いとされる行動を阻害し、社会を悪い方に(本来的にあるべき自由さとは逆に、つまりできる奴(自由な者、主権者)が優遇されず、ダメなやつ(自分の外にしか評価の基準がない人、あらたな真理をねつ造する人)が自分の立場を正当化しようとするケースが多々ある。法律に違反していないやり方で金を儲けようとして世間から批判されたり、本来の種としての能力の高さを生かしているだけなのに批判されるのである。そもそも法律とはやってはいけない事を、もしくは物事を行う際のルール定めたものである。それに違反したならともかく、それに全く反していないにも関わらず批判を受ける事は全くの見当違いだ。そして自由な人を批判する人は、その批判が奴隷道徳に基づく感情で批判していないと言い切れるのか。そもそも自由な社会とはどういう物か。奴隷道徳に基づいた決め事で社会を運営していいのか。やってはいけない事以外はやっていいという姿勢無くして、どうやって新たな価値観や技術、発送、発展、成長といった自由から発生する物を生み出せというのか。

おそらくニーチェの論から学べるのは「我々は人を批判したりルールを作る際にそれが奴隷道徳に基づかない物であるかをしっかり吟味すべき」だということだ。だが一般的に正しいとされている論ですら奴隷道徳に基づいて批判されたりする。いわゆる道徳だ。一般的に道徳とされる事ですら、こうした奴隷道徳に基づき主張される事がある。(お金儲けをしてはならないとか)私はこれから起きている現象に対してよせられる批判は奴隷道徳に基づいた批判なのではないか、という提起をしていきたい。