2 原発問題をニーチェ主義者が見ると

 

一週間ぶりのブログになってしまったが、書いていきたい。

 

 

 よくありそうな議論の流れを上げてみると、主に原発推進派はコストが安い事(費用対効果が高い事)や環境汚染が無い事(二酸化炭素排出しない)、燃料供給の安定性、技術力の高さを生かして商品化できる事、経済効果(市町村における雇用など)を謳う。一方で反対派は実際に起きた事故の悲惨さと、それが起きない保証はない事、核のごみをどう処理するかといった、原発のネガティブな面を強調する。そして賛成派が「国益を考えると原発は必要」なんて議論を展開して、事故のリスクに対してはおきない様に管理すればいいという。そして反対派はゴミの問題や事故のリスクを問う、という具合で議論が展開されるのではないだろうか。

 これらの立場はどちらも主観でしかない

まずこれらは両方ともただの主観である事を念頭に置く必要がある。例えば原発にかかるコストを見た時に賛成派はこれらを自分の都合の良い様に解釈する。具体的には諸々のデータを見た時、賛成派はコストパフォーマンス等の優位性のみを主張し、再処理費用をかなり低く見積もって、さも、原発がエネルギー問題の救世主であるかの様に発言する。一方反対派はこうした再処理費用やリスクを大きく評価し、原発のネガティブな面を主張する。両者とも原発事故が起きるか分からない事をいいことにお互いの主張を水掛け論の様にぶつけ合う。

 

ニーチェの遠近法を用いていうのならば、お互いが自分の都合良いように事実や事象を色づけて解釈し、自分勝手に互いにメリットデメリットを主張するのである。そしてこれらの問題(という概念)はそうした個々の人間の認識の集合によって構成されている。この問題に実は正解などは無いのだ。どちらかが勝ってももしくは引き分けてもそれは主観に過ぎない。

 個人的に私は原発の全廃には反対という立場だ。私は原発を多様なエネルギー源の確保できるという点でのみ高く評価する。だが今回の議題で私が話したいのは原発の是非ではなく、私たちはこの問題をどういう風に見るべきなのかという事だ。その時に一つの有用なメガネになりうるのが、ベンサムやミルの功利論である。次回は功利論についてとこれをこの議論にどう落とし込むか、を説明したい。

原発問題に寄せて~原発問題をちょっと違う角度から見てみる 1

今まで長々とニーチェの哲学について語ってきたが、これからは哲学的な姿勢を崩さず、自分の頭で考えてみるとある現象について社会の常識と違った見方ができる事をおみせしたい。さて、原発における諸問題を整理してみたい。

 ①反原発派vs原発推進派 それぞれの言い分を軽く整理

 ②私が考えうる国としての決断方法~ミルやベンサムの論を借りて~

 ③原発推進派の矛盾~国益という甘い言葉

 ④私の提言

 ⑤原発問題の根幹~国益とは誰の益?~

 ⑥まとめ

こんな具合で展開していきたい。

では次回からこの原子力問題に対して私なりの意見を書いていきたい。ちなみ結論から言っておくと私は原子力推進派でもないが、反対派でもない。私は原子力発電は多様なエネルギー源の確保という観点からのみ賛成である。原発のデメリットは数多いが、この多様なエネルギー源の確保することは数多くのデメリットに匹敵するほどの価値がある。ちなみに安全性だとか、コストが安いだとか(結果的に発電量が多くなるから)、様々なメリットが言われるがそれは事故が起きないと仮定した場合である。現に実際に起きた時にとんでもないコストを引き起こすし、良く言われるメリットは全くもって詭弁である。推進派は安全性を高めればいいというが、しかし私はここにこそ原発問題の根幹があるようにしか思えない。100%の安全はありえない事が一番の問題なのである。事故が起こらなくても。

ともかくこれからしばらく原子力発電を多角的にみた時にこういう見方もあるという事を提示できればと思う。これはセンセーショナルな反対論ではなく、しかも推進派の宣伝でもない。ニーチェ主義者である私の斬新な発想にご期待あれ?

ニーチェしめくくり

少し私事で色々あって、期間が空いてしまいましたが、最後に少し付け加えます。

ニーチェに言わせれば、多くの道徳的な価値観は人間の生の発展を否定する事で成り立っていた。(今までキリスト教やその他の宗教、道徳などがいかにルサンチマンに基づいたものであった事を説明してきた事を考えればわかりやすい)そしてニーチェはどうすればルサンチマンに侵されず、自分の生を受け入れて、肯定できるかを考えた。そしてその方法が永劫回帰の世界観に基づいた生き方だったのは今まで説明してきたとおりだ。

私たちは自問自答する必要がある 

 

 

現在様々な形でルサンチマンから派生する奴隷道徳による道徳が世間ではまかりとおっている。ただルサンチマンに侵されてしまうのは人間ならば仕方ない事かもしれない。だが、問題なのはそれがさも真理の様に宣伝され(つまり生の発展の観点からみて劣っている事が正しい様に宣伝され)真に優れた人間が足を引っ張られてしまう事が問題だ。

日本人はどうだろうか

 

日本人特有の出る杭は打たれるという考え。これは果たして奴隷道徳に基づいていないと言い切れるだろうか。人を批判する時それは本当にルサンチマンに基づいたものではないと言えるか。私たちは道徳をそれが真理である様に信仰していないか。お金もちに対する僻み、モテる者に対する僻み、優なる者への僻み。そしてそれを正当化するために自分が弱いこと、ダメな事を正当化していないか?ドキッとして省みる事ができるならそれはいいことだ。だが真に問題なのはそれをさも自分の言う事がまるで真理である様に言いふらす人間だ。

さて今までニーチェに関する事をつらつら書いてきたが、自分の気持ちが大いに入ってしまい、あまり客観的な文章が書けたとは思っていない。なのでぜひニーチェの本を読んでみることをおすすめする。もしくはニーチェの入門書を読んでみるのも良い。ただ、入門書でも難しいかもしれない。だからといってニーチェの言葉を集めたものを読んでも彼の真意は分からないだろう。できれば難しくても少しずつ読んで、そういえばこいつこんな事も言ってたな。なんて思いながら読んでみるといいかもしれない。

あと個人的には哲学は生きる上では必ずしも必要ないと思う。むしろ哲学をやらないで社会で没個性的に生きる方が楽だ。何も考えないで人に言われた通り、ルール通りにしていきる。こんな事が全ての人間にできればこんな楽な事はない。どこかの誰かが理想や思想を押し付けたり、共産主義の国の様に国民に計画経済を押し付けたり。それをやってきたのがナチスソ連だ。だが、それは思考を停止させる事でもある。自分の頭で考えないから新聞やテレビ、ネット等の媒体が正しいと信じ切ってしまう。何かしらのメディアの言う事、知識人の言う事を盲信する事は楽だが、それは自分にとって不利益をもたらしているかもしれない。もし物事を多角的に考える事が良い事だとするなら、哲学は生きる事において有益なものとなりうる。それを原発問題を題材にして次回から哲学の効用を説明していきたい。

ニーチェ、まとめ②道徳批判、永劫回帰

道徳批判

 

 

前回はキリスト教が奴隷道徳に基づくものだとニーチェが否定したところまで言及できた。そしてそれはニーチェに言わせれば道徳もそうだという。それは人が道徳を規定する際、ルサンチマンに基づいて規定するからである。結局道徳を制定するのは自分よりも強い人間に出てきて欲しくない人間、つまり自分より強い人間を恐れる、弱い人間なのだ。

 例えば道徳の利他性にそういった面が現れる。道徳には他者に配慮せよと命令を強制的に守らせて、個人が自分自身を配慮する事をやめさせ、共同体の為に自分を犠牲にしろというものだ。これは結果的に人の個性を否定し、強くあろうと、努力しようとする人間、強者を否定し、自分達と同じ存在(普通の人、つまり上の例で言えば弱者)にとどめようとする事だ。

 例えば金持ちがうまい具合に金儲けする事に対して私たちは少なからず嫉妬をするだろう。しかし人々の中にはそうした金を稼ぐ行為を道徳違反だと批判する人間もいる。現にプロテスタントを除けばキリスト教ではたくさんの金を稼ぐ事は忌むべき事とされる。だが、仮に金持ちが工夫をして、つまり国と国民の契約たる法律に反していないで金を稼いだとするならいったい彼の行為はどこに批判を浴びる要素があるというのか。金持ち批判は典型的なルサンチマンである。

また、モテる人(傾向として多くの異性を引き付ける人)に対する僻みもそうかもしれない。昔ある大学の教授がイケメン税を施行すべきのを聞いた事があるが、これも自分が不細工な事(そもそも絶対的な不細工なんているのだろうか?)を正当化し、生物として劣っている事をよい事とする。ルサンチマンに他ならない。優な存在を引きずりおろそうとするのである。

「自らを正義と言い立てる者をもっとも警戒せよ」

 

 

これはニーチェの格言の一つだ。彼は自らの主張こそが真実であると主張する輩に対しても批判した。この世に真理は無く、あるのは解釈だけであるからである。人々は世界や現象や物を見て自分たちで勝手に色づけたり、物語を作って勝手に解釈する。それがあつまってその存在になる。(木村拓哉の例)そしてその時社会の中で最も力を持つ解釈が真理と呼ばれる。今まで幾多もの真理とよばれる物が存在した。しかしそれは時代が進むにつれて誤りだとされる物も多かった。その時真理とされている物はその時正しかったものであっただけで、時間が経てば誤りとされるかもしれない。もしくは誤りだと分かって、その後結局真理とされるかもしれない。結局いつまで経っても真理と呼ばれる物が変わってしまうならそれは真理ではない。彼岸にありもしない真理を打ち立てても仕方ないのだ。

永劫回帰

 

 

 ニーチェは自身の批判により従来の価値観に対して徹底的に吟味を重ねた。そしてそれらの価値の転倒に成功した。(無論彼は彼の主張こそが真理でありルソーやマルクスの様に社会革命を起こせとは言わなかった)普通信じていた物が信じれなくなると、不安になる、ニヒリズムに陥る。だが、彼は生きる事に否定的にはならない。そんな世界で自分を肯定し、「良く」生きるにはどうすれば良いのか。その根拠になったのが二回くらい前の記事書いた永劫回帰という価値観だった。

おおまかにまとまるならこんな感じだろうか。次回はあとがきを書いてニーチェの紹介を終わりたいと思います。

ニーチェまとめ①ニヒリズムからキリスト教批判まで

今まで20回くらいに分けてニーチェと関係がある様な事を羅列してきた。しかし、長くなったのと、結構話がそれた所があったと思うので、このあたりで少しまとめたい。

① ニヒリズムについて

② キリスト教批判 

③ 道徳批判(従来の価値の転倒)

④ 従来の価値観に代わって提唱する永劫回帰の価値観

ニヒリズム

中世から近代になり、キリスト教の権威や、絶対性が様々な事件や科学の発達により、相対的に低下してきた。そこで人々は今まで絶対的だった、キリスト教に対して不信感を抱き、ニヒリズムに陥る。そこでニーチェはそもそもキリスト教そのものを疑い始める。

キリスト教批判

彼は自分の中の善悪の基準を疑い、考察しない限り、本当の意味での善悪の基準をうちたてる事はできない事に気づく。そしてキリスト教を吟味すると、キリスト教ルサンチマンに基づいている物と理解した。

そもそも人は、本来的に自らの生の発展を一番の価値とする。これはより強く、より良く生きようとする本能的な意思だ。人の内面から生み出す徳。これが自然発生的な道徳だった。キリスト教はこういった物を否定した。キリスト教は、現世にありもしないあの世をねつ造し、現世では弱い自分はあの世では強く、そして幸せになるのだと、現世で自分が弱い事が正しい事だと正当化する。(例として王と民の関係をイメージすると良い。民は弱い事が理由で虐げられる自分は現世ではだめでも、あの世では幸せだと思い込む。そして自分が弱い事を正当化する)

そしてキリスト教は肉体を軽視した。肉体を禁欲的に行使する事を求める。しかしこれは禁欲的に行動しなかった事に対して、後悔させる為のルールだった。例えばキリスト教徒が何か、キリスト教におけるルールを守らなかったとして、それと因果関係がない何かしらの不幸が襲ったとする。この時にキリスト教は教義通りに(禁欲的に)行動しないから不幸になると主張する。禁欲的に行動できなかった事に対して、ダメなのは私たち(弱者)と同じにしないからだと自由な人をたしなめる。そして人々は凡庸化し、力のある人間は弱者により引きずり降ろされ、個は消え去る。才ある者も淘汰される。こうしてキリスト教は本来的な人間内部から発する自然的な道徳を、ルサンチマンに基づくものに塗り替えてしまったのだ。

 だが、人々が自由を捨てさせるキリスト教を信仰するには理由があった。それは生きる意味が欲しかったからだ。そしてそれを与えてくれたのがキリスト教などの禁欲主義的な考え方だ。自分への苦しみを創り出し、生きるという事に対して意味を与えてくれた。この解決をしたという意味で少なくともキリスト教は意味があったと言える。

ニーチェキリスト教批判を簡潔にまとめると、こんな感じだろうか。彼のキリスト教批判はキリスト教批判そのものを目的にしたというよりもルサンチマンがもたらすものを批判したと考えられる。そして彼はキリスト教の他にも道徳も批判した。それは次回に回そう。

ニーチェの永劫回帰について

ニーチェを理解するうえでもう一つ重要なのはこの永劫回帰という思想である。前回もさらっと言った様にニーチェキリスト教を奴隷道徳の価値観を持つ宗教として批判した。そして今まで言った様な奴隷道徳に基づき行動する世界観ではない世界観を提示した。それが崖の岩をみて思いついた永劫回帰という世界観である。

 簡単に言うと実は人生にはあの世なんてない。という事。延々ぐるぐる意味もなく繰り返される世界。

自分が死んでも次に別の物へと生まれ変わりもしない。あるのは自分が死んだら同じ人生がまた待っているという物だ。そしてまた同じ人生が延々と繰り返されるのだ。同じ苦痛がずっと繰り返される。同じ幸福が繰り返される。同じイベントが繰り返される。(もちろん、その人間は自分の死ぬ前なんて分かりはしない)なかなか普通の人間には受け入れる事ができないかもしれない。人生なんてもう決まってるのかよっ・・・・なんて思うかもしれない。自分が経験した事はもう自分はかつて経験したのである。もう自分の未来は決まってるのである。決まったイベントを延々と繰り返す。ここでもう努力しても無駄だ。となるとニヒリズムどまりになる。なにも信じられない。何もする価値が無い。

 

 だがニーチェはこんな人生を肯定する。

 それは自分の人生の中のうち、とても幸福な事があったとする。そしたらそれが君が君の人生を繰り返すのに十分じゃないか、という具合である。そしてそれは貴族道徳的な理想とは矛盾しない。例えば自分の人生の幸せとはあるコンテストで優勝する事だとする。一見するとこれは他人の評価によって自分がいいか悪いかを決めていると思うかもしれない。だが、コンテストの優勝による喜びは実のところ他人の評価を受けた事よりも、自分の目標がたゆまぬ努力の末、達成できた事による喜びなのである。(無論コンテストは他人の評価により左右される)そして欲求を大事にし(優勝したいという目標)それを乗り越えるという事で(優勝する事)私たちは強い快感を得る事ができるのである。つまり自分の価値とは自分の生の肯定するために能力の向上によって、達成感を得る事だ。

 人が生きる事が仮に99%が苦痛で、幸福がたった1%でも幸せ!!

 

 例え自分の生がどんな物であっても受け入れる。そして課題が現れる。それをただひたすら乗り越える。できる事が増える。達成感を得る。幸福な出来事が起きる。それまで苦痛の日々であっても、それを経験できたならきっと自分の人生を肯定できるはずだ。

 仮にある人生における苦痛の割合が99%で幸福が1%だったとする。そんな人生でもニーチェが言うには人生は無限に意味なく繰り返すので、99%の苦痛も無限に繰り返して、1%も無限に繰り返す事となる。つまり、どちらも結果的には無限なのだ。

言うなら99×無限=無限 1×無限=無限といった具合である。

永劫回帰の世界においてこれらは量的に結果的に大して差無いし、その99%を乗り越えて、その1%の為に頑張ろうよ。というのが永劫回帰である。無論この99%の苦しみ、これを苦しみととらえるかどうかも実はその人次第だが。

ただここで注意しておきたいのは彼の言う世界観が正しいか否かは分からないという事だ。というか永遠に分からないだろう。ただ彼はキリスト教に代わる世界観を提示しただけなのだから。そして彼自身が提示したこの世界観は完成された物では無かった。この概念は彼の中のメモに書かれたアイディアなのである。

個人的に私は日本に長く住んでいるので、どうも輪廻転生の考えがこびりついており、すんなりと頭に入ってこない。そしてもし、この考えが人々にとってキリスト教を上回る程の物であるならば、世界に普及しただろうが、結果的には普及はしなかった。というか、そもそもニーチェは彼の思想を他人に押し付けようとはしなかっただろうが。彼はこの世には真理なんてない事はあらゆる哲学者の中で誰よりも知っているからだ。

現代の人々は分かっているか?真理なんてない事を 

今色んな事がさも正しい事の様に報道されたり考えられている。原発、TPP、安保法案・・・・そして今も一見インテリを気取った討論番組がそもそもOO原発は再稼働するべきか、なんていう議論を行っている。だが、彼らは彼らによるすべきか否かの議論では真の意味で正しい答えなんて出てこない事を理解しているのだろうか。彼らがしているのは双方の利益関係者が自らの意見を主張しているだけである。原発賛成派なら賛成、反対派なら反対、でしかないのだ。賛成が正しい、反対が正しいなんて事はない。あるのはより声が大きい方が勝つという事だけだ。すべきこと、絶対的に正しい事なんて無いのだから。彼らが自らの主張がさも真理であると勘違いしていない事を祈りたい。

 さて次回からはニーチェの総括をやっていきたいと思う。

ルサンチマンと非道徳者 

 さて、私は今まで道徳違反で社会から批判や中傷を受けた人を擁護してきた。だが、これはある意味で絶対的に正しい事など無い事を意味する事でもある。つまり彼らがした事は絶対的な誤りではないのである。例えば不倫や非道徳な事をした彼女たちは道徳というルールを犯しただけだけなのである。彼らの中では正義なのである。確かにこうした人間は道徳というルールから外れているし、批判者は社会の安定の為に叩くのかもしれない。だが、私は彼女達を批判できる資格のある人間以外は批判すべきでないと思う

 さて色んな事を書いてきたが、こう思う人もいるだろう。私は全ての規制を排除し、究極の自由を持つ社会に戻すべきだと主張したいのだろうと。それとも無政府主義者だろうと。全ての規制を廃止し自由にさせろという自由原理主義者なのだろうか。それは否である。私はあるべき社会、というよりもあるべきでない社会にならない為の社会のルールを主張するのである。それは具体的に言えばかつてベンサムが言った最大多数の最大幸福を実践し、かつ、何人も不当に抑圧されない、そして個人が、その個人にとって最も効率的に自分にしか作れない付加価値を生み出す事ができる社会である。規制は自らが最大効用の実践のために必要な安全を代表者(政府や行政である)に担保させる。そして人々はお互いを尊敬し、自分の安全を保証させつつ、自分の才を生かし、究極の自己実現を達成して、社会は最大多数の最大幸福を達成するのである。

 もし正しいプロセスで決められた法律でなく、できない事を正当化する為の下らない道徳に基づいて決められたルールがあるならそれは間違いなく社会の最大効率化の実践にとって害悪に他ならない。それは折角個人が持つ才能を実践させようとしたときに、不当な論理や理屈に基づいてその才能を実践できなくなった場合、最大効用の追求に大きな障害になるのだ。

 例えばもし何らかの理由で名門大学に入らなかった未来の天才がいたとして、もし、社会が学歴至上主義に陥ってしまった場合、彼の英知を使えず、最大効率化の実践は遠のいてしまう。テレビ界でも有数の有能タレントだった矢口真理さんは不必要な正義や奴隷道徳に基づいた中傷により仕事を失った。有能なタレントを使えないのはテレビ界にとってマイナスである。とてつもなく魅力的な、男をたぶらかす才能を持つ女はより多くの男の前に立ち、その魅力をいかんなく発揮し、付加価値を創造すべきだ。そして彼女の才能の発露を嫉妬を隠した一見正当に見える批判で可能性を潰してはならない。各々の人間は究極の自己実現をすればいい。問題なのはこうした才能のある人間がその才能を道徳のせいで生かせなくなることだ。だからこそやってはいけない事は法律にするのである。国民と行政の契約によって。自分たちの自由を守るために。そして自分の才能をしっかり生かす事や、そのための自由を担保する事は必然的に国家の最大効率化に繋がる。

 最後に言っておくとニーチェはこうした女の擁護を直接したわけではない。そしてベンサムも肯定したわけでは無い。だが、独善を批判した事は事実である。自分たちが絶対的に正しいと思いこみ、人々に真理と称するまがい物を押し付ける事を批判した。そう世の中に絶対的なものなんてないのだ

 次回からは永劫回帰をまとめたい。これはニーチェが人がより良く生きる為にキリスト教に代わる世界観として提唱したものである。いわば根拠である。キリスト教でいえばあの世、仏教でいえば輪廻転生など、人間が自分が生きる根拠を作りあげたものだ。ニーチェは奴隷道徳が色濃く表れるキリスト教ではなく、まさに人間が主体的にいきる為のルールが正当化される世界観を考えた。これが永劫回帰である。