ニーチェ認識論1-5 実証主義のリスク

前回は実証主義のリスクを説明した。一つ目は実証主義形而上学や芸術、美についての事柄を説明する事が難しいという内容だった。しかしそのほかにも帰納主義的に導き出された理論が絶対的正しい事を証明できないというリスクの話もした。

例えば昔はキリスト教的な世界観が昔は正しいとされてきたがそれは誤りである事が判明している。アリストテレスが提唱した天動説だって間違っていたし、キリスト教的な世界観として人間は神が自分に似せて作ったなんていう説に対してはダーウィンが反論している。(実証主義的に、帰納法的に。しかしこのダーウィンの説も正しくなく、新説が出ている。創造論というらしい・・・・)人々が正しいと思っている常識なんていつだって変わりうるのだ。どんなにその時に自分や世間がそれを正しいと思っていたとしても。つまり自分がいかに合理的で正しいと証明した物はいくらだって変わりうる。これはキリスト教的世界観に限らない。

 例えば原発問題だ。東京電力は自分達としては絶対に事故が起きない様な原発を作ったはずだ。それは何度も検証された。過去のデータを取り、綿密に計算されて。だが実際どうだろう。あの悲惨な事故は発生してしまった。つまり自然に証明されてしまったのだ。絶対に起きないと思っていた事が起きない保証なんてないという事を。環境問題もそうだ。人間は目先の事だけで環境破壊を昔から行ってきた。しかしそれが多くの公害を引き起こした。だが一方で「人間の活動により二酸化炭素が増加する事で地球温暖化が進み、北極の氷が解ける」なんていっていたが、現在、実は地球温暖化は人のせいではないのではないか、なんていう意見も出てきている。またSTAP細胞の騒動もそうだ。あの時、生物の大原則である一度完成した細胞が外的刺激でまた未分化の初期細胞に戻るという夢の様な、そして科学が積み上げてきた常識をぶち壊す様な技術が出てくるという話だった。結局はデタラメだった様だが。

ともかくニーチェは真理とされる物を信じる事への虚無感を覚え(彼の場合はキリスト教的価値観だった)、それに代わる完全無欠で究極の世界観として永劫回帰を唱えたのである。(むろんこれが正しいかどうかは誰にも分からない)そして実証主義的な物を、主客一体的な思い上がった考えに対して彼は「おめでたい考え方」と一蹴した。長くなったが、次回はニーチェの遠近法と相対主義の違いを述べてみたい。