ニーチェの認識論1-3 実証主義と相対主義

今回はニーチェが批判した実証主義(主客合一)という物について前回の内容を含めて説明したい。前回、私は絶対的にいい音楽なんて無いと説明した。曲が良いか悪いかは人によるからという事だった。(ただ、実はこれは相対主義的な考え方であり、ニーチェはそれにひと手間加えた認識論を持っている。これはそのうち相対主義と遠近法というタイトルで説明できればと思う)だが、私はよりたくさんの人にとっていい音楽を目指す事は可能だと言った。(つまり多くの主観を引き付ける方法である)その方法は「コード」を使用する事でできる。

CとかFなんて言葉は聞いた事はないだろうか。まぁCとは日本語でいえばドミソを、Fとはファ、ラ、ドの音を一緒に弾く事を意味する。ただこのテーマで詳しく話してもしょうがない。しかしここで言いたいのは、ただの音の並びであるはずの音楽だが、特定の並びで弾く事で人間はハーモニーを感じる事ができる。そして驚く事に日本で人気の曲は「カノンコード」と呼ばれるコードの並びである事が多い。Dから始まるコードで曲が展開されていく。

もちろん、このコードを使用すれば必ず売れる訳ではないし、カノンコードじゃないのにも関わらず、売れている曲もたくさんある。だが、ヒット曲でこうしたものが使われているものが多いのは事実だつまりこのコードを使用すればより日本人なら好きになる蓋然性がそうでない場合より少し高いという事であるどうやったら普遍的ないい曲って作れるんだろうとか、人ってどういう音楽が好きなんだろうとかを考えて、理論を作り、事実を証明する事が実証主義である。もしくは鉛筆の例で言うならようになんで君は鉛筆をこういう風に見えるんだろうとか、そもそも見えるってどういう事なんだろうと考える事である。つまり物事の仕組みとか現象の原因を探求する事や解明する事でもある。また、主客合一といって「自分が見える物、分かる事。それは自分で全て分かる事ができるんだ!!」というスタンスと非常に相性がいい。そして事実こういう考え方が自然の謎を解明してきたし、科学を発展させて人々の生活を豊かにしてきた。一方で相対主義は探求せず真理なんて無いんだと決めつけ、知ろうとする事をバカにする。そういう意味で後ろ向きな考え方かもしれない。

ここで多分あなたは「じゃあ実証主義っていいじゃないか!なぜニーチェはそんな物を批判するんだ」と思うだろう。ところがこの考え方にはある落とし穴がある。それは人間中心主義に結びつき、その正論とされる理屈を絶対視する事つながる事だ。次回は実証主義の罪を説明したい。