ニーチェの認識論1-2 やや長いです。音楽でニーチェを説明

さて前回はニーチェの認識論を鉛筆で以て説明した。この考え方は難しいので(自分にとってですが)もう一個例を挙げる事で皆さんが帰納法的に理解できるようにしたい。今回は音楽である。

突然だが、皆さんはAKBの音楽って好きだろうか?ご存じAKBはとてつもなく知名度があり、販売CD枚数は一千万枚を超えるという、とんでも無いグループである。では彼らの音楽は「絶対的にいい音楽」なんだろうか。私は好きではないが。その理由はそのうち書くとして、ファンの人にとってはとてもいい音楽であろう。だがニーチェに言わせればあれが「絶対的にいい音楽」であるとは思わないだろう。(彼は優れたピアニストでもあったが、しかしこれによらない)これはなぜか。

ニーチェの遠近法を使って言えば(つまり人はその現象を客観的に見る事はできず、現象を勝手に自分の良い様に解釈してるだけ)

そもそも音楽なんていうのは楽器が放つメロディがあって、それを並べて作った音の羅列である。その音の羅列に対して各々の人間が自分勝手に「これは名曲」だとか「今回はイマイチだな」なんて主観を各々言っているだけなのだ。そしてやっかいな事に音楽業界には批評家、と呼ばれる人間がいる。そして彼らは自分勝手に今回の曲についてもっともらしい事を述べ、彼らも彼らの都合で音楽を批評する。そして大衆は批評家の自分勝手な理屈に感銘を受ける、もしくはメロディが良いと勝手に思った人が買うのだ。もしくはそもそも音楽なんて聞いていないかもしれない。

 だが、そもそも良い音楽って何なのか?そんなものは個人個人で違う。個人が良いと思ったら、もうその時点でその人にとっていい音楽なのだ。つまり絶対的にいい音楽なんてない。だからどれだけ世間で売れていて、人が名曲だ!なんて言っても、それはただの主観(主流の解釈)であり、決して客観にはなりえない。音が出る現象、音符が並ぶ現象、それに詩を載せて歌う現象に対して人々はああだこうだ言ってるだけなのだ。言うならただの大きな主観である。

だが人々は不安である。なぜ良い曲なのか。自分が良い曲であると思う為のもっともらしい理屈が欲しい。そういう人間が作ったのが自分が好きなの音を正当化する為の理屈が、「CDの売上枚数が多いのが正義」「知名度が高いのが正義」「著名な評論家の評価」等の物である。(他にも一杯あるが)なんだか、理屈をつけて人間の生まれながらの不安を解消する為に作られた宗教に少し似ている。人々は自分が曲を評価する際、それは所詮主観に基づく物であるという事を理解しているのだろうか。

だがこの考え方と正反対の物がある。それは実証主義である。音楽により多くの主観を引き付ける為の方法はあるのか。法則は無いのか。また、鉛筆が見える、見えなくなる理由とはなんなのか。(こちらが一般的である)という考え方だ。実は音楽にはその方法がある。そして物が見える原理も判明している。だが、ニーチェは前回説明した通り、こうした考え方を批判した。次回はこの実証主義(主客合一)を説明し、遠近法との違いについての理解を深めてもらいたい。そしてその次か次位にそれぞれのメリットデメリットを説明できればと思う。

長くなってすいませんでした。