第一章 ニーチェの認識論 1-1

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結論からいっておくとニーチェは物事を認識する事とは実は主体(自分)の欲求(有用性)に基づいた一つの価値の解釈の仕方でしかないのではないかと定義した。この話は凄く難しいので具体例をいくつかあげるので、帰納法的に理解してもらいたい。

例えばあなたの前に画像の様な鉛筆があるとする。みなさんはこれがなんだと思うだろうか。これは緑色の鉛筆であると答える人が多いだろう。なるほどそれは確かかもしれない。でも例えば消しゴム付のエンピツと言ったらそれは間違いだろうか。もしくは削れている鉛筆と言ったら?それも間違いではない。つまりこれは何か?と問われた時、それはいかようにも解釈できる。また、言語によっても違う。もしこの画像が絶対的に鉛筆の画像であると言える時、それはなぜ、人によって、違う呼称になってしまうのだろう。それは知識が無いから?違う。なぜなら知識を授けられるという事は他人(圧倒的大多数)の主観を受け入れ、自分も主観(とてつもなく大きな)に取り込まれる事になるからだ。要は下の画像が緑鉛筆である、という事実は私たちの定義次第(感性、知識の有無、言語、体調、その他)でいとも変わってしまう、一つの「解釈の仕方」ではないだろうか、という事である。(むろんこれは鉛筆ではないと言いたいわけでは無い)

そして私たちはその中で発生している現象(鉛筆が存在するという現象)を自分たちの知識で以て都合よく解釈し、緑鉛筆、もしくは消しゴム付の鉛筆、書くもの等と各々勝手に理解するのである。つまり私たちが見えている緑鉛筆は真実ではなく、それを自分(主体が理解できるように)流に「緑鉛筆がある」と解釈しているだけなのである。だから主体が探求しようとそれは他人にとって全く同じものではない。つまり真理を求める事はあまり重要ではないという事だ。(遠近法と呼ばれるのは少しだけ違う) 

次回も音楽を使って相対主義的な話を説明します。