これからしばらくニーチェについて語っていきます

私はこれから少しでもニーチェの理解者が増える事を願う意味でも、ニーチェの考え方を自分で整理する為にも、なるべくわかりやすい様に一つの日記を1000文字前後で書いていきたい。

第一章・ニーチェの認識論(本質なんてあるの?僕らはどうやって物事を認識してるのか)

第二章・ニーチェの道徳論(キリスト教批判)

第三章・ルサンチマンキリスト教批判)

第四章・ニーチェが提唱する生き方

上の段取で語っていきたい。

準備運動「ニヒリズム

とは言ってもニーチェを語る前に色々説明が必要な事項がある。その中の一つ、ニヒリズムについて説明しなきゃならない事に気づいた。ニヒリズムとは皮肉的な考え方だ。つまり斜に構える考え方、というイメージでいい。物事の価値を信じず、どうせそれは嘘なんだろ?みたいに考える考え方だ。このニヒリズムは時代が進むにつれて特にキリスト教的社会でみられる傾向だった。(無論キリスト教だけではない)これが生まれてきた経緯を説明しないとニーチェの議論についていけないので少し説明したい。

さて。この前も話した通り、人は死ぬ事に対して極度に怖がる。また自分の生きる意味を考える事に対しても同様だ。それは現代社会でもルール等によって様々風に出てくる。例えばがん保険もそうかもしれない。ガンになる(つまり死ぬ)のが怖いからお金をかけてその不安を和らげようとする。生きる意味だったら、「なんで僕たち生きるだろう」なんて皆さんも考えた事があるはずだ。他にも腐るほどある。ただこれは本筋ではないので詳しくは書かない。そしてそれは当然昔のヨーロッパにもあった。人はなぜ生まれ、なぜ生きるのかとか、死んだらどこにいくのか、とかそういう事ばかり考えていた。だがそんなこと分かる訳がないのだ。そんな人々の不安を掻き消してくれたのがキリスト教だった。キリスト教は人々に神へ祈らせ、経典の教えを(禁欲的に)実践させる事で、人に生きる意味を与え、考える必要をなくし、そして根本的な恐怖(上の物)から目を背けさせる事でより豊かな生活を提供した。(宗教の意義だろう)ただ宗教は全く人の根本的な疑問に対して応えていない事は言っておく。だが「何か分からない」よりも「とりあえず何かある」方がまだマシだ。その意味でキリスト教は大いに普及した。(キリスト教は現在でも最もポピュラーな宗教の一つである事は言うまでもない。つまり未だに人々の不安に応え続けているのだ)

だが、時代が進むにつれてキリスト教は権威を失う。それは近代理性的な考え方や自然科学的な見方とキリスト教が合わなかったからだ。科学により神の教えの嘘がバレたり、神職の人間の腐敗だったり、挙句の果てに一国の王が教皇を捕えたり。そんなこんなで人々は人々の絶対基準だったキリスト教に対して不安を抱く。そしてこれがニヒリズムに繋がっていく。つまりニヒリズムはこうした価値観に代わる新しい価値観を考える為の段階と言える。今日はここで終わり!