2-4  ルサンチマンとビッチな女と貴族道徳

先日はルサンチマンがどんな形で実際の社会に表れているかを学歴社会を用いて説明した。今度は貴族道徳を持つ人間がいかに叩かれるかという事を実際の例に基づいて説明したい。先日あるニュースが大きく話題なった。それはある音楽フェスに参加した女性がなんとそのフェスの期間中3日の間で5人もの男性とセックスをしていた事をツイッターで堂々と告白したのだ。彼女の告白は多くの人間の反感を買う事になった。だが、実はこの批判一見もっともそうに聞こえるが実は奴隷道徳に基づくという事を説明していきたい。

 彼女を批判する声でよくあるのは「そもそもフェスはそういう物ではない」とか「あなたは不潔」だとか、「もう立派な年にもなって(36歳の女性らしい)そんなことをするのか」などという道徳的な面からくる批判である。これに対して彼女は「セックスする事は悪いことですか?」など反発しているが、世間の反応は彼女に厳しい。だが、私は彼女の存在を聞いてとても興奮した。いや、性的な意味だけでない。彼女に対する嫌悪や、彼女の様な存在(男にも)に対して嫉妬を感じると同時に、これほど貴族道徳に溢れた存在はいないと思えた事に対してである!そして彼女に対して、性別を超えたところの領域における存在として、彼女はある意味で貴族道徳を体現した存在である。と感心したのである。

 そもそも人の存在する意味などは無い。あるのは結果だけだ。これまで人は自分の生きる意味を見つける為に様々な真理を創り出してきた。だが、それは人間が人間が抱える死への恐怖や生きる意味を無理やり作ってきただけだった。だが、人が動物として生殖能力がある以上、人はセックスをする必要がある。そしてそれは種の保存という意味では人が生きる意味にもなりうる。つまり人を動物として見た時に人の生きる意味は種の繁栄であるという主張は説得力を持つ。つまりある意味でセックスにおいて異性を強く引き付ける能力を持つことは本能的に良いことである。そして妊娠するか否かはともかくセックスできる事、する事は種の保存の意味から言ってよい事と言えるのである。こういう風に定義した時、彼女がした事は全く持って悪い事ではない。問題はそれをできなかった者達だ。セックスをする事が本能的に良いことだと彼らは知っている。だから彼らはそれの機会を持てない事に対して強烈に嫉妬をする。そして彼らは道徳という事を持ち出してその魅力がある事、そして性において優位な存在、そしてセックスをした事実に対して、できない自分たちが感じる嫉妬を隠し、まるで自分たちが正義であるかの様に道徳を持ち出し彼女に対して「ビッチである」として攻撃を行うのである。

 だが道徳は自分ができない事をさも正義であると正当化する側面が強くあるというのは今まで説明してきたとおりだ。つまり本来的に良い事(種の保存)の能力が高い者に対して、自分たちができない事を正しい事とする者、つまりその能力が劣っている、もしくは道徳のせいでできない人が道徳をかざして、彼女ができる事に対して嫉妬に基づく批判を行っているのである。

 ではあなたはこう思うかもしれない。ならお前はそういう女と付き合えと。だがお断りである。確かに私は彼女を貴族道徳的な人間だと肯定した。しかしもし付き合うとなるとリスクになる事がある。それは彼女はセックスをする事に明らかに強い快を感じる事が分かるからだ。しかし、私は割と性欲における快がそこまでない。そして何かの間違いで結婚をする事になるとする。もしこうなったらその後に受ける精神的なダメージは計り知れない。だから私は彼女を一晩の相手としては良くても、パートナーとして見た時に魅力的であると考える事ができない。しかし彼女を中傷している人間が果たしてこういうプロセスを踏んで中傷しているだろうか自分が奴隷道徳から自分ができない事を正当化し、攻撃していないと断言できるだろうか

 次回からは似たような女性を題材にしたい。それは矢口真理さんやAV女優等へのバッシングについてである。しばらく一見悪いとされている存在や話題は実はこうした奴隷道徳に基づく事があるという事は知っておくべきだろう。だが、私は必ずしも貴族道徳的な人間が絶対的に良いなどというつもりはない。そして貴族道徳に基づく物だけが良い世界を作れというつもりもない。なぜならそれも結局独善になるからだ。世の中に本当の意味で絶対的に正しい物などはない。それはニーチェもそう思っていた事はルソーを批判した事からも明らかだ。長くなってしまったが今日はここまでにします。