原発問題をニーチェ主義者が見ると2 功利論(ベンサム)を使って

功利論を使って原発問題を語ってみたい

 

功利論とは何?(主にベンサム) 

 

功利論について説明しよう。功利論は良く利己的で自分の自分の幸せの為であれば他人を犠牲にしていいというイメージで語られる。またベンサムの有名な概念である「最大多数の最大幸福を追求する」という考え方に基づき、社会的弱者が最大幸福にとって邪魔ならそれを排除する事は間違いではないというイメージもあるかもしれない。しかし、それは正しくない。むしろベンサムやミルはこうした弱い人間を含むあらゆる人間にとって良い(つまり快がある)条件とは何かを快の大小で探ろうとしたのである。その幸福がどういう物か、つまり、質が重要か量なのかで両者の主張は違うが、根本的なところでは一緒だ。そして人とは「他人と幸福を求めあう存在」だと定義し、それに基づく政治のあるべき姿を模索する。つまり、人はどうすれば人同士のエゴイズムを乗り越えるのか、そしてどうすれば社会全体の人々が多く快を得る事ができるかを真面目に考えた。

 例えば互いに対立する快が2つあったとする。そしてそれらがもたらす快と不快を計算する。そしてそれらをそれぞれ比べて快が不快を超えた方が社会的に見て多くの幸福がある快であると考え、より社会にとって望ましい快であると考えた。無論これらを計算する事はできない訳だが、ベンサム自身これは必ずしも完璧に計算できるなんて考えていなかった。彼はこの方法をあくまで社会があるべき状態にあるのかを量る一つに過ぎないという風に彼自身も述べている

原発問題にあてはめる

 

 これをこの原発問題にあてはめてみる。例えば原発問題の賛成派の快と反対派の快を比べてみる。どうなるだろうか。原発推進派と反対派の言う政策を比べた時、どちらの方が社会的に見て快から不快を引いた時の快が多いのかという事がポイントである。快が大きい方が政策として妥当と言える。(一つの目安として)そして行うべき政策として国民が政党を選択し、実行させる必要がある。しかし、それには一つ懸念がある。それは人々はそれらの事実をどこまで客観的に理解できているか疑わしいという事だ。もしそれが正しく理解できていないとなればそれは人の選択を誤らせる事になる。

 このあたりでいったん区切るとする。次回は主に原発推進派の矛盾について指摘したい。私は原発反対派ではないのだが、推進派の主張には疑わしい物が多くあるからである。