ルサンチマンと非道徳者 

 さて、私は今まで道徳違反で社会から批判や中傷を受けた人を擁護してきた。だが、これはある意味で絶対的に正しい事など無い事を意味する事でもある。つまり彼らがした事は絶対的な誤りではないのである。例えば不倫や非道徳な事をした彼女たちは道徳というルールを犯しただけだけなのである。彼らの中では正義なのである。確かにこうした人間は道徳というルールから外れているし、批判者は社会の安定の為に叩くのかもしれない。だが、私は彼女達を批判できる資格のある人間以外は批判すべきでないと思う

 さて色んな事を書いてきたが、こう思う人もいるだろう。私は全ての規制を排除し、究極の自由を持つ社会に戻すべきだと主張したいのだろうと。それとも無政府主義者だろうと。全ての規制を廃止し自由にさせろという自由原理主義者なのだろうか。それは否である。私はあるべき社会、というよりもあるべきでない社会にならない為の社会のルールを主張するのである。それは具体的に言えばかつてベンサムが言った最大多数の最大幸福を実践し、かつ、何人も不当に抑圧されない、そして個人が、その個人にとって最も効率的に自分にしか作れない付加価値を生み出す事ができる社会である。規制は自らが最大効用の実践のために必要な安全を代表者(政府や行政である)に担保させる。そして人々はお互いを尊敬し、自分の安全を保証させつつ、自分の才を生かし、究極の自己実現を達成して、社会は最大多数の最大幸福を達成するのである。

 もし正しいプロセスで決められた法律でなく、できない事を正当化する為の下らない道徳に基づいて決められたルールがあるならそれは間違いなく社会の最大効率化の実践にとって害悪に他ならない。それは折角個人が持つ才能を実践させようとしたときに、不当な論理や理屈に基づいてその才能を実践できなくなった場合、最大効用の追求に大きな障害になるのだ。

 例えばもし何らかの理由で名門大学に入らなかった未来の天才がいたとして、もし、社会が学歴至上主義に陥ってしまった場合、彼の英知を使えず、最大効率化の実践は遠のいてしまう。テレビ界でも有数の有能タレントだった矢口真理さんは不必要な正義や奴隷道徳に基づいた中傷により仕事を失った。有能なタレントを使えないのはテレビ界にとってマイナスである。とてつもなく魅力的な、男をたぶらかす才能を持つ女はより多くの男の前に立ち、その魅力をいかんなく発揮し、付加価値を創造すべきだ。そして彼女の才能の発露を嫉妬を隠した一見正当に見える批判で可能性を潰してはならない。各々の人間は究極の自己実現をすればいい。問題なのはこうした才能のある人間がその才能を道徳のせいで生かせなくなることだ。だからこそやってはいけない事は法律にするのである。国民と行政の契約によって。自分たちの自由を守るために。そして自分の才能をしっかり生かす事や、そのための自由を担保する事は必然的に国家の最大効率化に繋がる。

 最後に言っておくとニーチェはこうした女の擁護を直接したわけではない。そしてベンサムも肯定したわけでは無い。だが、独善を批判した事は事実である。自分たちが絶対的に正しいと思いこみ、人々に真理と称するまがい物を押し付ける事を批判した。そう世の中に絶対的なものなんてないのだ

 次回からは永劫回帰をまとめたい。これはニーチェが人がより良く生きる為にキリスト教に代わる世界観として提唱したものである。いわば根拠である。キリスト教でいえばあの世、仏教でいえば輪廻転生など、人間が自分が生きる根拠を作りあげたものだ。ニーチェは奴隷道徳が色濃く表れるキリスト教ではなく、まさに人間が主体的にいきる為のルールが正当化される世界観を考えた。これが永劫回帰である。