ニーチェ2-3後編 ルサンチマンと学歴社会

前回は学歴至上主義がルサンチマン話に基づく話をした。しかしそもそも学歴社会そのものに対して拒否反応をする人間もいる。私はこれを反学歴社会主義と呼ぶ。これもまたルサンチマンの構図に似ている。ルサンチマンに則って作られた学歴至上社会へのカウンターとして更にその上に真理のねつ造を図るのである。良くあるのが、「会社に入ってから学歴なんて役に立たないよ、大事なのは人間力だよ」などと学歴を否定するのである。これはいい大学に入れなかった人間、もしくは自分が望む大学に入れなかった人間が自分を肯定する為に必ずしも学歴がある事が仕事力を担保しないという事実を濫用しているに過ぎない。

ポイントとして学歴そのものに実は価値は無いという事だ。学歴はあくまで結果であり、つまり自分の努力に対して得た一つの結果であるという事なのである。つまり学歴なんて役に立たないという批判は全く妥当ではない。それは自分がダメで他人が良かった事を自分の外の価値観や基準に依拠して嫉妬をし、ダメだった自分を正当化しようとしているだけのものである。実際に起こった結果に対して自分の都合の良いように解釈して自分を肯定する為の理屈をぶつけ肯定する。一方で学歴至上主義も同様である。学歴至上主義は学歴がある人間(しかもこれ自体が自分の良心ではない。自分の外の基準なのである)が何かによって劣等感を感じた自分を肯定する為の道具に使っているという点を理解しなければならない。

大学合格とは難しい目標を立て、努力をして、そして難しい目標を達成したという事実以外の何物でもない。

つまり両者とも所詮は自分の価値を肯定する為に自分の外の価値観を基にした基準に基づいて他人を否定しているのである。

だから冒頭の話において重要なのは彼女が努力をしたこと。そして結果を残した事。これは全くもってその他の事柄によって否定されることはあってはならない。なぜならそれは事実であり結果なのだから。そして彼女に対して努力をして目的を達成した事に対して尊敬をすべきなのだ。ただしそれは必ずしもいい大学に入ったから尊敬するのではない。国立大学に入る事は容易な事ではないのでその為によく努力をした事実、そして達成したことに対してである。逆に最もしてはならない事は事実と結果に対して勝手に色づけを行い、さも自分が言っている事が真理であると錯覚して自分を肯定する為に他人を中傷する事である。(色づけする行為その物は人の認識の方法だから仕方がないのだが、それを真理と錯覚し、自分の主観を押し付けようとする事がおろかなのだ)

そして最後に私は確かに学歴至上主義や反学歴社会主義を批判してきたが、必ずしも学歴社会そのものを否定したわけではない。学歴社会はただの現象や事実に過ぎないからである。それそのものが悪いわけではないのだ。問題はそれらが学歴社会を根拠に自分を肯定しようと他人を批判している事実を忘れる事がいけないという事だ。

忘れてはならないのは受験勉強をしてもしなくてもそれはそれなりの人生しか待っていないのだ。ある人が一切の受験勉強をしなかった場合、その人は中卒になると仮定する。しかし彼は絶対不幸になると言えるだろうか。それを彼が不幸であると思わなければそれは否である。彼は生きる事で社会が持つ階層構造に飲み込まれ、中卒の人間が出来る仕事(階層)に押し込められその中で仕事をする。そこでその階層特有の試練を受ける。一方でもし受験勉強を突破し、競争を勝ち抜いて全てにおいて勝利した人間がいるとする。彼は勝利者だから絶対に幸せであると言えるだろうか。もし彼がそれを思わないのであるならそれは否である。勝利した人間も社会の階層構造に飲み込まれ、勝ち抜いた人間のみに与えられる試練を受ける。人が幸せであるか否かは他人は理解する事ができない。それは彼がおかれる環境や現象に対して幸か不幸かを感じるのは他人でなく自分だからである。他人の評価のみを生きる目的にする人間はその時点で貴族道徳に基づいて行動していない。自分の生きる意味を他人が勝手に作ったルールに基づかせる事は本当に幸せと言えるだろうか?

 さて今回は学歴社会をルサンチマンの観点からみた。次回はある女性たちについて語りながら、彼女たちがいかに貴族道徳的であったか(奴隷道徳と対称的であったか)を説明してルサンチマンへの理解を帰納的に深めていただきたい。なお、次回は性についての話である。凄く刺激的な話になると思うので、注意。