ニーチェ2-3 前篇 ルサンチマンと学歴社会

さて、前回はニーチェキリスト教批判を通してルサンチマンとは何か、を説明した。だが、この構図は何もキリスト教だけに当てはまるわけではなく、現実世界の至るところにこの構図はある。

そこで何か題材は何か無いかと考えていたところ実は学歴社会も実はルサンチマンで語る事ができるのではないか、と思うに至った。実は最近衝撃的な女性の存在を知り、その女性こそ、まさに説明する為にぴったりの題材だと思ったが、もう少しメジャーな問題を語りたいと思い、学歴社会をテーマにしたい。もっともこのテーマであっても最後までしっかり読まないと私の真意は理解できないだろう。本当は2日がかりでやる様なテーマではないと思うのだが、かなり長くならざるをえなくなり、前篇後編に分ける。前半は学歴至上主義批判を、後半は反学歴社会批判+まとめを行います。

先日、某ゲームの攻略の為にニコニコ動画を見て、攻略の参考にしていたところ、上に出てくる記事に福田萌さんが自分が大学に入った事は勲章だという旨の発言をして炎上したという事が話題になっていた。彼女はどうやら「学歴は努力の証明書で自分の力で獲得した」と発言したところ、それに嫉妬した人間が「それは親のおかげ」だとか、「そんな大学大したことない」とか、「いい大学出たからって社会に出たところで役に立つとは限らない」とか、「高学歴のみを努力の結果だと思うのは違う」いう様な批判を受けたようだ。

 どうやら彼女は難関国立大学に努力して入った事を誇りにしているらしい。だが私に言わせれば彼女が真に評価されるべきなのは国立大学に入ったことそのものでなく、目標を決め努力を重ね、自分の目標を達成した事である。よくこの問題が語られるうえで出がちな主張として学歴至上主義を是認する意見と社会に出たらそんな物は関係ないという意見がある。一見これは両方とも正論に見える。だが、この二つは両方とも奴隷道徳に基づいていると言えないだろうか。

そもそも未だに就職活動や社会通念上、学歴社会がまかり通るのには理由がある。それはその人間の尺度を測る上で非常に楽だからである。本来人の価値を測る事は難しい。というかその人が真に客観的にどんな人間かを導き出す事は不可能だ。なぜなら絶対的客観などはこの世に無く、人の評価とはその人間を個々人が勝手に解釈してその人間を評価し、その人間はそうした評価の積み重ねで認識されているからだ。だが、人は人を知ろうとする時、分かる事からその人間を評価を試みるだろう。特に就職活動ではそれは第一印象であり、その人の人となりなのである。つまり学生にとっては学歴である。

この学歴社会。悪い様に言われる事も多いが、実はキリスト教と同じくメリットがあった。それは昭和の時代高度経済成長の時期に社会の総中流化に大きく貢献したもっともその頃は今の様に大学の名前云々よりも大学に入るか否かの意味合いが強かったが、大学を出る事でその人間は価値のある人間と認められ、社会に出ていった。当時好景気で人が足りなかった企業はそれにより働き手を充足する事ができる様になった。その意味で学歴社会は日本の成長に一役買ったのである。だが、次第に学歴という言葉は、もともとの意味である出た学校の種類という言葉から出身大学名という風に意味を変更されて使用されるようになる。そして大学は予備校によって偏差値というランクを決められて、大学の序列が決まるのだ。そしてランクの高い大学に入った人間の中で評価の基準を他人の評価でしか決められない人間は自己の肯定の為に、自分より低い人間を見下す。こうして学歴至上主義は構築される。

 学歴至上主義者はキリスト教原理主義者に似ている。かつてキリスト教徒が自らに苦行を課し、生きる意味を見出させたのと同じ事である。前回説明した様に本当は生きる意味なんて分からない。分からない事への不安。そして強者より弱い自分。そんな自分が正しくある為に真理を創り出し、そのねつ造された真理に従って苦行を勝手に行って、自分の生きる意味を、つまりキリスト教的価値観に沿って生きる事を、自分の生きる意味と感じるのだ。学歴至上主義も同じである。学歴至上主義からくる受験勉強だってある意味人間が抱える不安、苦悩、生きる意味、自分の未来といった究極の難問への逃避である。なんで勉強するの?と子どもに聞かれて果たしてその真の答えを教えてあげられる者がいるだろうか。未だかつて「将来の為だよ」とか、「損はしない」とか、「役に立つ」とか、「必要だから」とか、そういう受験勉強の効用や有用性、正当性を強調する以外の答えを聞いた事がない。つまりそれは受験勉強の世界自体がルサンチマンに基づいたものであって真理などではない事の証明ではないだろうか

そもそもこの受験勉強という世界自体、ルサンチマンに基づく性質があるのは間違いない。本能的に良い人間(貴族道徳や戦士道徳にあふれた人やスポーツが出来る人、モテる人とか、楽しそうにしてる人、ニーチェの言う自由な人々、主体的な人々)に対して、そうじゃない人間は自分を肯定する為に、とりあえず勉強という苦行をして、本能的な苦しみから逃れる為の手段とする面は否めない。そして自分が苦しい思いをして達成した事なのだからそれは正しいと考える。そう、つまり学歴至上主義は本能的な貴族道徳や戦士道徳に満ち足りた人間に対して、弱い人間が学歴至上主義を掲げ、その価値の転倒を試みたものであると言える。つまり学歴至上主義は勉強をしていい大学に入った人間が自分を肯定する為に作り上げた理屈なのではないだろうか。(日記の最初から言っている様にこれ自体が正しかったり、間違っているという事を言いたいのではない。学歴社会の色付けは個々の解釈しだいなのである。実存主義的、相対主義的に解釈してほしい)

だが私は先ほどの議論の様な学歴社会否定論者ではない。学歴社会に反対する人間はいい大学に入った人を先ほどの理屈で批判し、自分にとってのいい大学に入れなかった自分を肯定しようとしているだけだ。

そう。つまり結果的に弱者のルサンチマンによって出来上がった学歴社会における学歴至上主義に対して、仕組みに参加できなかった人間が嫉妬心をもやし、学歴がある事を否定し、無い自分もしくは満足を得られなかった自分を肯定するための根拠として反学歴社会主義を唱えるのである

長くなりました。次回はこの反学歴社会主義と学歴社会のまとめです。