ニーチェの認識論1-4 実証主義の弱点 福士蒼汰さんと海老蔵さん

ニーチェ実証主義を否定した直接の動機は自分に分からない。だが、彼はキリスト教の絶対性の低下により現れたニヒリズムに対して、こうした価値観に代わる新たな価値観を生み出したかったのは事実だ。そしてそれは永劫回帰という世界観である。この思想は彼の主張の根幹に繋がる重要な物である。ただ今回はそういった話よりももう少し具体的な話をしたい。つまり実証主義のリスクである。

そもそも実証主義にはできる事とできない事がある。例えば実証主義が得意なのは現象の解明である。前に挙げた、「なぜえんぴつは見えるのか」という例は相対主義よりも説得力がある。また、メカニズムがある物にも有用である。例えば気候の分析とか、物事のしくみとか、科学、物理現象の解明である。こうしたものは相対主義では宗教とかと大して変わらない理屈になってしまう。(雨が降るのは神が泣いているからだというのと、そもそも雨が降ってるかどうか感じるなんて程度とか人とか環境次第だ、なんていう具合に)

ただ実証主義は芸術や形而上学的な学問や主観的な事(美について等)を説明するには説得力が欠けるのだ。例えば音楽の例である。ある音楽がある。そしてその音楽が好きなリスナーと質問者がいる。質問者はリスナーになぜ「君はなぜこの音楽が好きなのか」と問われれば、それははっきり言ってリスナーが好きだからである。万人が好きな音楽なんてこの世にない。どんな名曲でも嫌いな人がいる。逆にリスナーが嫌いだったとして「なぜ嫌いなのか?」、なんて問い詰めても実証主義的なアプローチでは絶対的な法則を見つけ出す事ができないだろう。

そもそもその音楽を自分がどのくらいの量の「好き」で「好き」と思うか、もしくはどのくらいの量の「嫌い」で「嫌い」になるかなんてその人の裁量だろう。更にそもそもその人がその音楽が好きと言うにしても、その「好き」がそもそも質問者の「好き」と全く同じ意味かどうか分からない。そもそも「好き」な理由が音楽じゃなくて歌手かもしれない。そしてそれが何か理屈をつけて音楽を肯定的に説明させるかもしれない。結局どう感じるかなんて、受け手の問題なのだから。

また、人の顔についてもそうである。誰々がイケメン、そうでないといった話にも言える。例えば今はやりの福士蒼汰さんと歌舞伎俳優の市川海老蔵さんのどちらがイケメンか、という題があり、それを百人に聞いた時にどんな時でも福士蒼太さんが100対0で勝つだろうか?人が他人の顔を好みかそうでないかを判断する基準は絶対ではないはずだ。こうした事に、市川海老蔵さんが福士蒼太さんより劣っていると科学的に証明する事ができるだろうか?無理だろう。人それぞれで好みの顔のパーツがあるはずだ。もしそんな基準があるとしてもそれは主体が大きな主観に取り込まれたに過ぎないだろう。実証主義はこうした事を説明するのには不向きなのである。

第二のリスクは帰納主義的に導き出された理論が絶対的正しい事を証明できないからである。実証主義の考え方は主に帰納法に基づく。つまりそれまでの発生した現象をいくつも観察し、それを分析し、データを抽出して理論を確立し、それに基づいて永遠不変の理屈を構築しようとする。ところが実証主義はある事を見逃している。例えば研究してきた事に対して導いた結論があったとして、それに対してある法則を導き出したとする。しかしもし、その次にそれまでの理屈にそぐわない現象が発生したらどうするのか。これを証明する事ができないのだ。今日はここまで。次はもう少し実証主義のリスクの具体例を出して説明したい。