ニーチェ主義者が切る~今あえて考えてみる安保法案~

前回の続きだ。

安保法の問題を自分なりに考えてみる。何が問題だったのだろう。

 

さて、よく学者や識者が安全保障今回の件で「立憲主義に反する」とか、「法案は違憲である」とかそういう主張をする。それに対して「中国の脅威が迫っているのに何を寝ぼけた事を言っているんだ!」なんて思う人もいるかもしれない。でも彼らは自衛隊を円滑に運用する事に対して反対はしているのではない。それよりもその実現の方法がおかしいと怒っているのだ。(反対している人もいるかもしれないが、批判している人たちはそういう人たちだけではない事は理解するべきだ)彼らが政府に怒るのは国民に是非を問う必要があるであろう、この重大な事柄に関連する事柄への決断をさせず、この法案を強引に押し進めるという姿勢があったからだ。

そもそも現在の法律では自衛隊の運用は厳密に行われていた。なぜなら自衛の為の組織でしかなかったからだ。それを海外からの要請を受け(人道支援など)、国会で限定的な承認をすることで自衛隊を海外に派遣してきた。しかし今回は違う。明確に憲法上、日本に集団的自衛権を持つ事を認めさせて、アメリカとの共同軍事作戦に参加できる様に作られた、自衛隊の円滑な運用を可能にするための法律だからだ。(勘違いしている人がいそうなので、強調しておくが、そもそも日本を守る為には集団的自衛権は必要ない。日本を自衛隊を使って守る為の権利は個別的自衛権だからだ)

つまり集団的自衛権に基づく自衛隊の海外への派遣を容易にし、同時にアメリカとの協力関係を強調する事でISやロシアや中国などの国や組織との対立関係を深め、テロや戦争関係の出費が増える事やその他の攻撃の標的になる様な事態につながる事柄に関する決断である。こんな重要な事をなぜ国民の同意を得ず勝手に政府が強引に決めたのか。まず、多くの学者はこれに怒っている。

この是非は日本が国民主権の国家であるならまず国民に問うべきだ。では国民に問うとは何か。一つは解散総選挙だ。そしてもう一つは憲法改正だ。現実的にみると総選挙は支持率の低下があり、難しい。そうなるとやはり憲法改正が現実的な手段だった。もし、現在の国際情勢をみて国民が憲法改正が必要だと感じ、憲法を改正してまで中国やロシア、テロリストに対応しなければならないなら、それもいいだろう。しかし安部首相はそれをしなかった。それは国民軽視である、として反対派は怒るのだ。

そして更に学者を怒らせるのがそもそもこの法案が成立する前提で話が進められている事だ。かねてから米国は自身の軍事費を抑えるために日本にアジアの安全を守らせたがっていた。それを受ける形で法案を作り、安部首相はアメリカの議会にて自身の政権の間に(もっと具体的な期間を指定したかもしれない)必ずこの法案を通し、アメリカの負担軽減に協力する事を表明した。(しかも国民に問う前に)これに応えるため、必ずこの法案を成立させる必要があった。そして国民の信を問わず、確実に成立できる方法で成立させた。

後でこの法案を通していてよかったと思うはずだ、などと首相は言うが、法案の内容よりも、行政権が立法と連携して国民を無視し、独善で自分にとって都合がいい様な法案を作った事実が問題なのだ。これは明らかに行政権の暴政にほかならない。

今回の件で一番メリットがあるのはアメリカと中国だ。

 

今回真の意味で得するのは負担が減るアメリカと、後ろ盾が増えた途上国、そして右翼化する日本に対抗するという名目で軍事力を強化する免罪符を得た中国だ。本当の意味で嫌がっているのは韓国だけかもしれない。

批判者の不在

 

残念ながら彼らの独善を通してしまったのは批判者がおろかだったせいでもある。感情でしか判断できない愚か者の批判ばかりが目立ったのは事実だ。彼らがまるで反対派の主流であると取り上げられた事は行政権の暴走を招いた一因だ。そして分かってもらいたいのは、学者の中には彼らの様なお花畑批判者とは違う人間もいるという事だ。例えば代表の広渡先生はかなり聡明なお方だ。元旦恒例の天皇の新年会に必ず招かれるほどの知識人である。他にも色々高名な方がいらっしゃるが、彼らは感情論で批判はしていないのである。

この問題は外交問題としてもそうだが、日本の行政権において大きな汚点になったのは間違いない。皆さんも大衆主義に流されず、自分の頭で考えて、ネットだけで情報収集するのではなく、色んな本を読んでみたりして知識を吸収して欲しい。

今だから改めて考える、安保法制の問題点

色々あり、ついついブログを後回しにしてしまい申し訳ないです。

もう少しちゃんと取り組まねば・・・

さて早速安保法制の問題点を少し考えてみたいと思います。現在中国とアメリカが人工島を巡り火花を散らしていますが、その内日本もあの辺りを航行する事になると思うので(実際アメリカ人のエコノミストがそうすべきだと言っていたのでそうなるでしょう)この問題点を少し振り返ってみたいと思う。

さて、様々な物議を醸した安保問題だったが、結局何が悪くて何が良いのか分からない人も良くいるのではないか。そこで改めて自分なりにこの問題を整理したい。みなさんも自分の意見を固める為に利用してくだされば光栄です。

安保法の中身:ざっくりいえば現在厳格に運用される自衛隊をより円滑に運用できるようにするものだった。理由はアジアにおけるアメリカの負担を減らす事。中国への対抗。アジアにおけるパワーオブバランスを保つため。国際貢献をしやすくするためのものだ。

賛成派 

・台頭する中国への対抗(尖閣の防衛その他)

・国際貢献のため

・今のままではいざという時に自衛隊を運用できない、国を守る事ができない(本当かどうかともかく)

・日本への世界からの期待

 こんなところか。

反対派

法治主義に反する

立憲主義に反する(これは説得力がある)

徴兵制に繋がる(これはたぶん誤りだ)

戦争法案だ(これも怪しい)

・アメリカのいいなりだ(これは説得力がある)

・そもそも今必要なのか(今の状態でできる事は何か、できない事は何か。限界はいったいどこまでだったのか、今この瞬間に成立させるに足る程ひっ迫した事情が?)

・日米同盟の深化は日本人のリスクを高めるのでは(ISとの戦争に巻き込まれないか)

 ・この安保法案を口実に中国が更に軍事力を強化してくることは間違いない。つられて日本の軍事費も高くなる。(これは間違いないだろう。中国は安保法に反対したが、内心ではしめしめと思っているはずだ。哀れな事に本気で反対したのは世界で韓国くらいかもしれない)

 

さて、全体的に反対が多いが、反対する有識者や学者の主張はこんな感じだと思う。だが、はっきり言って今回の一件は何も本質が語られていない。というか反対派の批判が徴兵制に繋がるとか、戦争法案である、などというレッテル貼りがお粗末すぎて、安保法の成立の手助けになっているとすら思う。本来議論されるべき所がそれてしまっている。TPPの時の様に。(本来TPPの一番怖いところは農業や畜産業に打撃を与えるという事などではないのに、メディアはそこしか取り上げなかった)そこで私なりによく言われる立憲主義に反するという批判と、アメリカのいいなりではないか、という主張を酌んで批判を行ってみたい。次回にします。

もう少し早く更新できる様にします・・・

 

原発の問題点 ~ニーチェ主義者が考える原発行政の闇~⑤私の提案、まとめ

結局原発は・・・そして私の案

 

今まで書いた通り、原発のコストパフォーマンス性は私たちが思っているほどではない。はっきり言って疑わしい。要の発電力におけるコストパフォーマンスも期待外れだ。これは自分で調べれば分かる事なので書かないが、それより前書いた様に、日本の原発行政が原子力の利益関係者にとって凄くおいしいものである、という事実はしっかり理解する必要がある。口酸っぱく言うが、これは経産省の予算獲得、地方自治体の財源、東京電力にとっての資産を無駄にしないための理屈であるともいえる。だが私は原発行政を批判していても、原発の根絶には反対だ。それは代替性の面からの意見だ。これは非常に重要な事だ。

原子力のメリット

 

 原子力発電は火力よりは発電量が多いのは事実だ。そして今現在の発電方法の中では安定して多くの電力を生み出す事ができる。そして他の発電方法の費用が高くなり過ぎたり、機能しなくなった時原発は代わりの発電方法として有用だ。その意味で主要な電源の一つとしてはいい。だがこれを日本中に作るのは全く意味のない事だ。むしろ金もかかる。メイン電源として使う事も日本の負担を増やすだけ。そして原子力村の懐が温かくなるだけ。各電力会社のためになるだけ。日本のためにはならない。これを忘れてはならない。

推進もダメ。反対派でもない。なら私の案は?

 

原発を残し、しかも増やさない為にする方法は何か。ヘーゲル風に言えば反原発と推進派の立場を止揚させる方法はあるだろうか。私なら原発を一か所に集めてみてはどうかと考える。国がある特定の一か所に原発特区を設置し、そこ以外の場所に原発を設置できなくする。そして原発をある一地区に集中させる。これはリスクや費用を一か所に集める事で管理しやすくするためだ。更に交付金を減らす事に繋がるし、事故が起きた時の対応もしやすい。被害の拡大も防ぎやすい。例えば大量の原発を集めれば一帯を鉛で囲う事もできる。諸費用(輸送費、人件費、等)も経済的だ。

 その為には東京電力以外の会社が原発を保有する事を禁止する。そして各電力会社が保有する原発を全て東京電力が買い取る。そして東京電力は不要な原発を責任持って処分する。(長期的にだが)許可された場所にない原発は全て廃止する。

原発行政の縮小の副作用

 

だが原発を集める事(つまり原発行政の縮小)は副作用がある。まず金がかかる。だが、交付金を何十年にわたって払うよりはマシだ。その交付金は下がる事は一生なく上がり続けるしかないのだから。(来年度予算案では交付金は912億円も計上されているそう。これをこれから先ずっと払い続ける。しかもそれは安全の名の下、下がる事無く上がり続ける。これを日本が破滅するまでずっと払い続けるのよりはましだ)

 そしてここで言いたいのは禁断症状についてだ。原発がある地方自治体は原発助成金という麻薬を使用し続ける事で自身の維持を続けてきた。つまり経済は原発特需によって支えられてきた。これが無くなると大変な事になる。麻薬が無い中毒者の様になる。自治体は廃れるだろう。だが麻薬使用者が禁断症状をきたしたとして、国民のだれが同情するだろう。皆言うはずだ。自己責任だと。自治体も同じだ。原発振興金という麻薬を使い、予算を得てきた。景気を支えてきた。これを失ったら発狂するだろう。彼らは麻薬中毒者と何が違うのか。その禁断症状は景気を回復する為の方策を考えなかったツケだ。やらなければならない事があるのに安易な手段を選んだのが悪い。

 結局今までの事をまとめると、

原発は万能ではない

原発は主要な電源の一つとして数えるのはいいが、火力の代わりにはならない

原発を増やす事は利益関係者のためにしかならない

④この側面がある事を理解した上で、果たして原発政策をこのまま推進する事が国民にとっての真の幸福、正義(最大多数にとっての功利)であると言えるのか。快であると言えるか。それを選挙で支持できるか

 こんな感じだ。一番重要なのはメディアに騙されず、ネットにだまされず、国に騙されず反対派に騙されず、自分の頭で良く考える事だ。もしかしたら私も嘘を言っているかもしれない。これを機会に思考停止をせず、物事を深く考えて、自身の良心を見失わず、末人にならない事が重要だ。

次回からは結局デモの様子や感傷的な議論しか取り上げられなかった安保法制について少し考えてみたい。今更ながらあれは何が悪かったのか。分からないままでいる人もいるかもしれない。そんな人にも、そして自身の持論の形成の為のヒントになるような事を考えてみたい。

原発問題によせて④ ニーチェ主義者が切る!~原発問題の本当に恐ろしいところ~

原発は本当にコストダウンにつながるか

 

一般論としてよく言われるのが、原発はコストパフォーマンスが良く、安全に運用すればもっとも有用な電源となりうるという論理だ。とりあえず核のゴミの問題や実際のコストパフォーマンスのレベルが高いか低いかは置いておくとして、私は少し違った部分のコストに焦点をあてたい。それは原発の管理のコストである。

原発のコスト~原発は麻薬か?

 

私に言わせれば原発は麻薬と同じだ。麻薬は一度使ったらやめられないし、使う量が増えていき、同じ量では満足できなくなると言われる。結果量が増え、金もたくさんかかる。だが私はこの原発の問題にも同じ構図があると思う。つまり原発の安全のためのコストは年々上がり続けるという事だ。それは燃料の高騰によるものではない。人件費、メンテナンス料、地方自治体への助成金などの費用そのものが原因だ。今までこれらの要素を鑑みたうえで原発批判を試みた者がいただろうか。少なくともメディアにはいないだろう。感情的に原発の被害の大きさや核のゴミの問題を扇情的にまきあげるだけで(もちろんそれも大事なのだが)理性的に批判をしてきたものは多くは無かったはずだ。私が原発行政に対して最も危惧するのはこれらの費用が大きくなって国の財政を大きく圧迫する事だ。考えてみてほしい。原発を運営する上で一番大事なのは何だろうか。それはほかならぬ安全である。その安全を確保するための費用を常識的に削減する事なんて考えられるだろうか。例えば人件費を下げる事なんて考えられるだろうか?日本は年功序列型だ。人件費は毎年上がる。メンテナンス料(保全費)は言うまでもないだろう。

安全という「まやかし」の為に払われる限度の無い金

 

 原発を運営する上で一番のリスクは安全である。だが事故のリスクをゼロにする事は決してできないのだ。とはいえそのリスクをより少なくする事はできる。それは予算を大量につぎ込む事である。特に一度事故を経験したのだから否応なくそのリスクを防ぐための費用への財布のひもはゆるい。だが、問題なのはその費用に天井なんてものはない事だ。なぜなら原発事故のリスクは永久にゼロになる事はないからだ。そしてそれを口実にして原子力村の人間が安全のためなどと言って、自らの為の予算を国から引っ張り出して、自らの肥やしにするのだ。地方自治体への助成金も同様だ。原発事故へのリスクを担保してもらう自治体への慰労金を削減することなどできるだろうか。こうして原子力の安全を担保するために大量の金が使用される。しかも減る事はない。更にそれを全国に作ろうとするのである。

麻薬と原発

 

これを麻薬と置き換えてみる。麻薬は一時の幸福を得る為に使用される。そして次第に使用量が増えていく。そして人生がダメになる。原発はどうだろう。一時の電力を得るためにたくさん作る。しかし安全性を担保する為にたくさんのお金を使う。そんな施設なのに量を減らすどころか増やせと自民党は(原子力村と経産省が言うからだ。電力会社にとって原発を持っているのに使用しない事は無駄に維持費がかかるだけになるし、経産省は予算を獲得できるから。末人なのだ彼らは。)言う。そうなるとコストパフォーマンスを上回り、ますます国の借金は増えていく。国はダメにならないだろうか。実際のところ原発行政は利益関係者の為の利権なのだ。

いかがだろうか。こんな事を言うニュース解説者はいただろうか。新聞はあっただろうか。いないだろう。それはメディアの人間はみな末人だからだ。だがこんな事を書いておいて私はなおも原発支持派なのである。それはエネルギーの代替性の観点からみるとやはり重要なのだ。ではどうすべきか。私なりの案がある。それは次回に回そう。

原発問題に寄せて④ ニーチェ主義者が切る! 原発のコストダウンは本当か? 

原発は本当にコストダウンにつながるか

 

一般論としてよく言われるのが、原発はコストパフォーマンスが良く、安全に運用すればもっとも有用な電源となりうるという論理だ。とりあえず核のゴミの問題や実際のコストパフォーマンスのレベルが高いか低いかは置いておくとして、私は少し違った部分のコストに焦点をあてたい。それは原発の管理のコストである

原発のコスト~原発と麻薬~

 

私に言わせれば原発は麻薬と同じだ。麻薬は一度使ったらやめられないし、使う量が増えていくと言われる。結果かかる金が増える。私はこの原発の問題にも同じ構図があると思う。つまり原発の安全のためのコストは年々上がり続けるという事だ。それは燃料の高騰によるものではない。人件費、メンテナンス料、地方自治体への助成金などの費用そのものが原因だ。今までこれらの要素を鑑みたうえで原発批判を試みた者がいただろうか。少なくともメディアにはいないだろう。感情的に原発の被害の大きさや核のゴミの問題を扇情的にまきあげるだけで(もちろんそれも大事なのだが)理性的に批判をしてきたものは多くは無かったはずだ。私が原発行政に対して最も危惧するのはこれらの費用が大きくなって国の財政を大きく圧迫する事だ。考えてみてほしい。原発を運営する上で一番大事なのは何だろうか。それはほかならぬ安全である。その安全を確保するための費用を常識的に削減する事なんて考えられるだろうか。例えば人件費を下げる事なんて考えられるだろうか?メンテナンス料(保全費)は言うまでもないだろう。

 原発を運営する上で一番のリスクは安全である。だが決して事故を起こさない事は、つまり事故のリスクをゼロにする事は決してできないのだ。だがそのリスクをより少なくする事はできる。それは予算を大量につぎ込んでより良い設備や技術を持ち込ませる事で達成できるのである。特に一度事故を経験したのだから否応なくそのリスクを防ぐための費用に対するヒモは緩い。だが、問題なのはその費用に天井なんてものはない事だ。なぜなら原発事故のリスクは永久にゼロになる事はないからだ。そしてそれを口実に、それを隠れ蓑にして原子力村の人間が自らの待遇の為の予算を引っ張り出して自らの肥やしにするのだ地方自治体への助成金も同様だ。原発事故へのリスクを担保してもらう自治体への慰労金を削減することなどできるだろうか。こうして原子力の安全を担保するために大量の金が使用される。しかも減る事はない。事故のリスクが高まるからである。しかもそれを全国に作ろうとするのである。

これを麻薬と置き換えてみる。麻薬は一時の幸福を得る為に使用される。そして次第に使用量が増えていく。そして人生がダメになる。原発はどうだろう。一時の電力を得るためにたくさん作る。しかし安全性を担保する為にたくさんのお金を使う。そんな施設なのに量を減らすどころか増やせと自民党は(原子力村と経産省が言うからだ。電力会社にとって原発を持っているのに使用しない事は無駄に維持費がかかるだけになるし、経産省は予算を獲得できるから。彼らは共に末人なのだ)言う。そうなるとますます国の借金は増えていく。国はダメにならないだろうか。

いかがだろうか。こんな事を言うニュース解説者はいただろうか。新聞はあっただろうか。いないだろう。それはメディアの人間はみな末人だからだ。だがこんな事を書いておいて私はなおも原発支持派なのである。それはエネルギーの代替性の観点からみるとやはり重要なのだ。ではどうすべきか。私なりの案がある。それは次回に回そう。

原発問題を割と今までになさそうな見方で見る3~国益とは何か?

前回はベンサムの考え方をヒントにして原発政策のゴールを考えてみた。そしてそのためには現状をしっかり理解する事が必要だという事も書いた。今日はその現状を新聞が伝えない様な、少し違った切り口で物事をみていきたい。それは国益とは何かと言う事だ。

国益は魅力的な言葉だが、それは具体的に何を示すのか

 

 さて、原発推進派が良くいう文句として「国益になる」という言葉がある。だが私は真の意味で国益なんていうものは無いと考えている。国益とは文字通り国の利益と書いて国益という。しかし考えてみると国の利益とはなんだろうか。もし、主要な日本の企業が儲かり、それが結果的に日本にメリットをもたらすという意味だとしよう。だがこれを言い換えるとあるのはそれを選択する事によって得をする存在がいるという事実があるだけだ。それが多く存在し、それらが利益を得るならば結果的に日本の為になると言われる。例えばトヨタと日本の関係の様に。

 だが、真に国全体の為なんていう利益は存在しない。例えば円安だってそうだ。ながらく円安は日本にとってプラスであると言われてきた。確かに輸出企業は得をしたかもしれない。(実際は思っていたほどでもなかったがそれは本筋ではないので書かない)しかし多くの企業や生産者が苦しい思いをしたのも事実だ。

 輸出企業でも損した企業があった。東芝がその例だ。東芝は海外に多くの生産拠点を移していたためにこのメリットを享受する事はできなかった。損をした。結果、粉飾決算に繋がったかもしれない。東芝の不利益は日本の国益に反しないのだろうか?そして輸入企業にとって大きな痛手だったことも忘れてはならない。例えばニトリなどの企業は苦しくなるわけだが、彼らの損は国益にとって損にはならないのか。また海外から飼料や食品を調達する人々の苦境ぶりは話題になった。中小企業で働く人間が苦しむ事は国益に反しないのか。

 円安は輸出企業にとって得だった(として)が、それは多くの犠牲の上に立つ。しかしトヨタがたくさん利益を上げて日本に還元されるならそれは国益なのだ。(だが実はトヨタが上げた利益の多くは海外の生産拠点があげたものだったが)

国益とは結局は利益関係者にとっての益

 

様は国益とは特定の企業や利益関係者が得をする。そしてそのおこぼれに期待するという、事実から派生するただの淡い願望なのである。日本全体にとってプラスになる選択などはない。ある特定の強い集団が儲かる様な仕組みをしていく。そして彼らの手から零れ落ちる益を下の人間が乞食のようにありがたがる。実はこれが国益なのだ。これがトヨタなどを儲けさせることだ。これがトリクルダウンが発生して・・・なんていう議論に繋がる。ところで、本当に日本の景気は良くなったか。株価は上がった。物価も上がった。しかし国民の所得は増えない(物価の分だけ増えてない)。労働人口は増えた。(非正規が)そして経済成長率は民主党の時より低い。これは民主党政権の時より労働の生産性が低下している事を意味するのではないか。(私は別に民主党支持者ではないが)

 少し話はそれたが、円安を例にあげれば分かる通り、国益を重視した政策は万人にとって良い事ではない事を理解する事が必要だ。正確には誰かにとっての益にしかならないという意味で理解してほしい。これが原発問題にも言える。ベンサムの議論でいうと、つまり推進、反対双方の政策のうち、どちらの方が国にとっての幸福につながるかを市民は選挙で決める。その選択を間違えないためにまず国益とは利益関係者の為の益である事をまず理解して欲しい原発の利益関係者とは誰だろうか。経済産業省東京電力などの電力会社、自治体、俗にいう原子力村の人々である。これらに予算が振り分けられて自分の待遇が保障されるのである。これらの人々にとって原発推進は快である。またコストパフォーマンスが優れていると信じる人にとっても同様だ。一方で誰が損をするか。無理益なのに事故リスクを背負わされるこうした利益を受けない国民や市町村である。

次回は更に原発の矛盾を考えてみたいと思う。というか次回がキモだ。私は原発反対派ではない。だが、自分が知りうる限り自分の言う原発のリスクを語るメディアが無い様な気がするので原発問題を考える上で反対派も賛成派も知っておいてリスクがあるのである。それは原発の隠れたコストの問題だ。 

原発問題をニーチェ主義者が見ると2 功利論(ベンサム)を使って

功利論を使って原発問題を語ってみたい

 

功利論とは何?(主にベンサム) 

 

功利論について説明しよう。功利論は良く利己的で自分の自分の幸せの為であれば他人を犠牲にしていいというイメージで語られる。またベンサムの有名な概念である「最大多数の最大幸福を追求する」という考え方に基づき、社会的弱者が最大幸福にとって邪魔ならそれを排除する事は間違いではないというイメージもあるかもしれない。しかし、それは正しくない。むしろベンサムやミルはこうした弱い人間を含むあらゆる人間にとって良い(つまり快がある)条件とは何かを快の大小で探ろうとしたのである。その幸福がどういう物か、つまり、質が重要か量なのかで両者の主張は違うが、根本的なところでは一緒だ。そして人とは「他人と幸福を求めあう存在」だと定義し、それに基づく政治のあるべき姿を模索する。つまり、人はどうすれば人同士のエゴイズムを乗り越えるのか、そしてどうすれば社会全体の人々が多く快を得る事ができるかを真面目に考えた。

 例えば互いに対立する快が2つあったとする。そしてそれらがもたらす快と不快を計算する。そしてそれらをそれぞれ比べて快が不快を超えた方が社会的に見て多くの幸福がある快であると考え、より社会にとって望ましい快であると考えた。無論これらを計算する事はできない訳だが、ベンサム自身これは必ずしも完璧に計算できるなんて考えていなかった。彼はこの方法をあくまで社会があるべき状態にあるのかを量る一つに過ぎないという風に彼自身も述べている

原発問題にあてはめる

 

 これをこの原発問題にあてはめてみる。例えば原発問題の賛成派の快と反対派の快を比べてみる。どうなるだろうか。原発推進派と反対派の言う政策を比べた時、どちらの方が社会的に見て快から不快を引いた時の快が多いのかという事がポイントである。快が大きい方が政策として妥当と言える。(一つの目安として)そして行うべき政策として国民が政党を選択し、実行させる必要がある。しかし、それには一つ懸念がある。それは人々はそれらの事実をどこまで客観的に理解できているか疑わしいという事だ。もしそれが正しく理解できていないとなればそれは人の選択を誤らせる事になる。

 このあたりでいったん区切るとする。次回は主に原発推進派の矛盾について指摘したい。私は原発反対派ではないのだが、推進派の主張には疑わしい物が多くあるからである。